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読書感想文
 
太宰治「津軽」を読む

 「津軽」を読んだ。新しい太宰に出会った気がした。私にとって太宰は、苦い思いを伴ったなつかしい作家という感じだ。

 大学時代、日本の作家では私は太宰を一番よく読んだ。それこそ太宰の言葉一字一句漏らさず読み込んだ。私は、太宰を読むことで自己肯定していたのかもしれない。若い読者にとって太宰は自分1人にだけ語りかけてくれるよき理解者であるように思える。太宰の魅力は間違いなくこの語りにある。彼は天性の語り手なのである。それはいたこが神の言葉を私たちに語りかけてくるものと類似しているかも知れない。太宰の生まれ育った津軽にはいたこがたくさんいた。
 だがあれほど熱狂した太宰も、大学を卒業し、社会でもまれていくうちに私の心の中からは消え去ってしまった。太宰を読み直そうとは思わなかった。太宰は若い私にとっては一種の麻薬だったのかもしれない。

 今年は太宰が昭和23年6月19日に玉川上水に入水してから60年にあたる。もう60年もたつのである。私も50歳を超えた。太宰の人生は39年だ。だから私はそれよりはるかに長く生きているわけだ。考えてみれば太宰が39歳で死んだとは思えない。私にはかなり老成した作家に思えたからだ。50歳を超えた機に、太宰をもう1度読んでみようと思った。ただ、50歳を過ぎた私は「人間失格」「斜陽」は読む気になれなかった。やはり、手にした本は「津軽」である。

 私は太宰のすべての作品を何度も読んだが、30年の時を経てもう1度読み直したいと思ったのは「津軽」「お伽草紙」「新釈諸国噺」の3作である。「津軽」を読んだあとは「お伽草紙」「新釈諸国噺」を読み直そうと思っている。
 「津軽」「お伽草紙」「新釈諸国噺」には共通点がある。それはこれら3作がいずれも戦時中に書かれたもので、ユーモアたっぷりの作品だということである。作家が小説を書くのはあたり前である。ところが、その当たり前のことができない時期があった。それは太平洋戦争末期である。文学史を繙(ひもと)くと、この時期に書かれたもので後世に残る作品は太宰の作品を除いて皆無である。大御所といわれた志賀直哉、谷崎潤一郎なども沈黙していた。いや沈黙せざるを得なかったのだ。太宰1人気を吐いていたのである。
 不思議なことだが世間全体が辛く暗いとき、太宰は強く明るく、そして、戦争が終わり、世間がこれから復興に向かって前向きに動き出したとき、太宰は落ち込んで暗くなった。太宰という人間は回りが暗いときには本当の実力を発揮するのか。やはり太宰は道化だったのか。

 さて、「津軽」を読み返して、これは名文中の名文で最高傑作という感を新たにした。実にのびのびと自然体で書かれている。太宰の得意の沈鬱・暗さがまったくない。間のとれたリズミカルな文章が心地よい。太宰は饒舌になり、たわいもないことを縷縷(るる)と書いているが、それでいて無駄な文章は一つもなくさわやかな緊張感が漂ってくる。
  「津軽」の見事さはこれが本当に昭和19年に書かれたのかと思うくらい「津軽」の中の世相が明るいことだ。ところどころ、酒が配給になって自由に飲めないとか、軍の国防に関することだからある土地については詳しく書けないという記述はあるが、それらは作品全体にまったく翳を差さない。それは太宰が、津軽の土地とそこにいる人たちの人情の機微を何の衒(てら)いもなく書いているからである。
 文学とはやはり人を描くものだと再確認した。太宰は真底人間が好きで、人を嬉ばしてやりたくてしょうがないのだ。

 「津軽」の白眉は何といっても太宰が乳母のたけに再会したときである。そのときの太宰の心情が見事に吐露されている。何よりも太宰は自然な状態でたけと接している。たけは太宰にとって最高の母性なのである。太宰はそのたけと会ったとき素直に書いている。
 <・・・。私はこの時はじめて、私は育ちの本質をはっきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。身よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいたことがある人だ。私は、これらの人と友である。>
 この文に太宰の気持のすべてがあらわれている。もしかしたら彼の思想・哲学もこの文に凝縮されているかもしれない。
 名門の家に生まれ、特権階級としての自己を否定し、そしてデカダンスに走り、太宰は逃げては戦い、行き詰まり自らを抹殺しようとした。しかし、最後に行き着くところは、結局は母性であった。

 <親孝行は自然の情だ。倫理ではなかった。>

 たけを前にしたときの太宰の悟りである。倫理・道徳がどれほど太宰をいじめてきたことか。
 たけは太宰にとって最高の母性であったが、太宰自身も最後は若い読者にとって最高の母性になった。「太宰を読んでいると、なぜか自分が許されているような気がする」と誰かが言っていた。これが太宰文学の本質であろう。

 
太宰治「惜別(せきべつ)」を読む

 近代中国の文豪魯迅(ろじん)の本名は周樹人。周は1904年、清の留学生として仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。魯迅はもとから作家志望ではなかったのだ。
 秀才であった周でも医学の道は険しく、彼は刻苦勉励勉強に勤しんだ。解剖学を教えたのが藤野先生である。藤野先生は周のノートを1週間に1度点検し、添削をほどこして返した。ノートが赤く染まったという。藤野先生は講義に関する記述の間違いだけでなく、文法の間違いをも直したという。
 藤野先生の指導も空しく、周は1906年、学校を退学する。理由は、細菌学の授業でたまたま見た幻燈に中国人のみじめな姿が写しだされており、それをみて、中国を救うのは医学ではなく、文芸だと思ったからである。いわゆる「幻燈事件」がきっかけであった。周は作家になることを決意したのだ。
 藤野先生に学校をやめることを告げると、藤野先生は非常に悲しんだ。周が仙台を離れる直前、藤野先生は周に餞別として自分の写った写真を与えた。その写真の裏には「惜別」と書かれていた。
 藤野先生が周に対して親身に教えたのは、小は中国のためであり、大は新医学を中国に伝えるためであった。
 以上のことは魯迅の名作「藤野先生」に書かれている。

 「藤野先生」は高校の教科書に載っていた。高校生の私にも「藤野先生」は感動的であり、藤野先生を立派な人だと尊敬した。それから何十年もたっているが、藤野先生に対する尊敬の念はますます嵩じてきている。
 魯迅は「藤野先生」の中で、藤野先生は偉大であるが、先生の名は知られていないと書いているが、日本には藤野先生の他にも有名ではないが、立派な先生はたくさんいたと思う。

 太宰治の「惜別」は魯迅の「藤野先生」をベースに書かれた小説である。
 この小説はある意味においていわくつきの小説である。これは昭和18年、内閣情報局と文学報告会の委嘱を受けて書き下ろされたものだからである。いわゆる、国威発揚のための国策的小説であったのである。国の為政者たちは戦争を肯定的に描き、なおかつ日本が勝つことを国民に信じさせ、そして日本人を奮いたたせる小説を太宰に期待したのである。
 太平洋戦争の戦時下、文学史に刻まれるような名作はほとんど書かれていない。小説が書かれなくなったわけではない。国威発揚の小説はいくらでも書かれた。だが、そのような小説で後世に読み継がれたものは1作とてない。
 国から命じられて書かれた小説の中で現在でも読み継がれているのは太宰の「惜別」だけである。「惜別」は国の意図に反して国威発揚の小説とはほど遠いものである。太宰はこの小説を通して、魯迅に対する思いを切々と書いたのである。
 太宰が情報局へ提出した「『惜別』の意図」は次の通りである。
 <中国の人をいやしめず、また、決して軽薄におだてる事もなく、所謂(いわゆる)潔白の独立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中国の若い知識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感情を抱かしめ、百発の弾丸以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図を有しています。>
 この文章は本当に「文芸」を愛している人にしか書けないものである。昭和18年という暗黒の時代にこの文を為政者に渡した太宰の勇気に私は拍手を送りたい。「文芸」は「百発の弾丸以上」のものであると、当時の政治家・軍人官僚たちにはわからなかったろう。

 「惜別」は国の意図とは違った意味で読む人に勇気を与えてくれる。物語では、太宰が主人公の周にのり移ったように、清の現状、日本の明治維新のこと、「文芸」のことを熱く語る。
 周が結局、医者になることを断念し作家を志すのは、「医学」という科学では中国を救えないと自覚するからである。中国を救うためには、中国人を内面的から変えなければならず、それは「文芸」によるしかない、だから作家になると周は語る。
 文芸をつね日頃、「無用の用」といって慈しんでいた太宰は周の口を借りて、自分の「文芸」に対しての思いを語るのである。

 私は今回「惜別」を読み直して、やはり太宰はすごい人だと惚れ直した。学生時代、私が太宰に対してもっていたイメージは、銀座の酒場「ルパン」で長い脚の丸椅子に足を組んで坐って笑っているダンディな太宰の姿であった。無頼・デカダン・放蕩・女との心中など太宰を評するとき使われる形容であるが、とんでもない。太宰はとてつもなく勉強家であり、強靭な精神をもっていたのである。
 「惜別」だけでない。戦時下において太宰が書いたたくさんの作品、「新ハムレット」「正義と微笑」「津軽」「右大臣実朝」「新釈諸国話」「お伽草子」などは名作である。
  私は「惜別」を読んで、無用の用の文芸がすばらしいものであると強く再認識した。 

 
太宰治「斜陽(しゃよう)」を読む

 太平洋戦争中そして戦後になっても太宰治の旺盛な創作意欲は少しも衰えなかった。しかし、戦争中と戦後の作品では作品の調子は大分違う。
 戦争中の作品に私は明るいものを感じた。「津軽」「新釈諸国話」「お伽草子」などはその代表的なものであるが、これらの作品の底にはあきらかに未来が存在していた。苦しくても未来を信ずる。それが明るさとなって表れていた。
 私が学生時代太宰に入れ込んだ理由の1つが、作品に流れる逆境の中での明るさであった。回りの状況が悪化すればするほど太宰は研ぎ澄まされた感性でもって、暗闇の中に光を見い出した。光を希望といってもよい。太宰はある意味ではイエス・キリストであったのかもしれない。人民を信じ、国を信じ、そして天皇を信じた。太宰は敗戦があきらかな状況でもひたすら日本人ならびに日本を信じたのである。
 状況的には終戦は日本の解放であった。喜ばしい状況である。世の中は復興に向かって動きだす。忘れていた未来の2文字が人々の前にちらついた。。太宰も明るくなるはずであった。だが、太宰は逆に暗くなった。

 私は太宰の戦争中の作品と戦後の作品を較べたとき、戦争中の作品のほうがはるかに好きである。戦後の作品のベースになっているのが明るさではなく、絶望であるからだ。
 戦後の作品で私が一番好きなのは未完に終わった最後の作品「グッドバイ」である。この作品のようなブラックユーモアのきいた作品を書き継いだら太宰は尊敬するモーパッサンをはるかに超える文豪になっていたと私は思う。
 世の中には未来が充満し始めたのになぜ太宰は絶望したのか。
 太宰の戦後の代表作といったら「斜陽」「人間失格」である。本当に久しぶりに「斜陽」を読み返した。非常に違和感を感じた。やはり20代前半のときと50代ではこちらの感性が違うのであろうか。太宰の作品は読者の感性に訴えるものだと認識した。絶望も若い人には生きるよすがになるのであろう。「斜陽」は青春小説であると思った。

 「斜陽」は主人公であるかず子という没落貴族の女性によって語られる小説である。かず子をとりまく人たちが3人いる。母親、弟の直治、そして直治が親しくしている流行作家の上原である。4人はそれぞれ太宰の分身である。
 物語は戦争が終わってかず子と母親が東京の家を売って、伊豆の山荘に移ったところから始まる。かず子一家は終戦になって財産をほとんど失っていた。貴族から平民になってしまったのだ。かず子と母親はもっている着物などを売って生活した。母親は最後の貴族であった。気品があり、やさしい人であった。かず子も直治も母親を心の底から慕っていた。彼女は伊豆に移ってから日に日に弱りそして貴族の高貴さを残しながら静かに息を引き取った。それを追うように復員した直治も自殺した。直治は死ぬ時期をつねにうかがっていたのである。直治は貴族という人種から抜け出たくてたまらなかったが、できなかった。彼はロマンチストであった。母親が死んで自分の生きる場所も意味もまったくなくなってしまったのである。
 かず子はけなげにも「恋と革命」のために生きることを決意する。その第一歩が上原の子を身ごもることである。上原は農民出身で貴族とは対極的にある人間である。上原もこの世に絶望している。そんな上原にかず子は恋をするのだ。
 上原との恋に成就して彼の子を宿したとき、かず子は上原と別れて生きることを決意する。

 太宰は「斜陽」を通して何をいいたかったのか。
 太宰は<本当の自由主義者とは天皇陛下万歳といえる人間である>と何回となく作品(「苦悩の年鑑」「正義と微笑」など)の中でいっている。結局、戦争が終わっても人間の卑小さ・醜さ・軽薄さは変わらないと太宰は見抜いたのであろうか。俄かにおれは戦争には反対だったという人間が増え、これからの世の中は民主主義の時代だと吹聴する。太宰にはそれが時代に便乗する浮薄な行為としか写らなかった。民主主義を聖戦と変えれば戦争中と同じではないかと太宰は思ったのであろう。直治は軽薄な民主主義を口を極めて非難する。
 「斜陽」が書かれた1年数ヶ月後に太宰は自殺する。「斜陽」はかず子が上原にあてた手紙ではないが、世間に対する戦闘開始の書であったのかもしれない。

作文道場太宰治(だざい おさむ)
1909年(明治42年)6月19日ー1948年(昭和23年)6月13日。
本名、津島 修治(つしま しゅうじ)
青森県五所川原市出身。東京帝国大学仏文科中退。
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