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読書感想文
 
福沢諭吉「福翁自伝」を読む

横浜駅西口 今では学生が学校に授業料を納めるのは当たり前のことである。この行為に対して誰も違和感を覚えない。しかし、福沢諭吉が慶応義塾で初めて生徒から授業料を徴収するまで、塾で授業料をとることはなかった。
 それまで、緒方洪庵の適塾など塾はたくさんあったが、それらの塾には授業料などというものは存在しなかったのだ。生徒は塾に入門すると、束脩(そくしゅう)というものを塾にわたし、それから盆暮れに付け届きするぐらいであった。束脩というのはお布施みたいなもので額はきまっていなかった。品物の場合もあった。
 福沢は定収入がないと塾運営はできないと考え、生徒から毎月金二朱を授業料として徴収した。これが授業料の始まりである。むろん授業料という名も福沢が考えだした。
 以上のことは福沢の「福翁自伝」に書かれている。
 私は長い間教育に携わってきた。偉大な教育者としての福沢を知ろうと思い、手にとったのが「福翁自伝」であった。読みながら私は興奮した。とにかくわかりやすく、おもしろい。大河小説を読んでいる趣もあった。幕末から明治の生き証人の言葉を聞くような気がした。以来、私はこの作品を何度も読み返し、教育に関係するものたちに事あるごとにすすめた。
 「福翁自伝」は福沢の生まれてから最晩年までのことを口述筆記させた自叙伝である。自伝文学としても最高傑作である。

 福沢は豊前中津奥平藩の士族の息子として生まれた。父親は福沢が生まれてまもなく死んだ。福沢は父親の顔を知らない。兄姉たちとともに福沢の行く末は母親一人の手に委ねられた。
 福沢の人生は大きく二つに分けられる。それは学問を志し、蘭学そして英語の研究をした前半生と、慶応義塾を創立してから晩年までの後半生である。福沢は自分の人生を振り返って、<恰かも一身にして二生経るが如く一人にして両身あるが如し>といっている。前半生は江戸時代で、後半生は明治時代である。
 福沢は<一人にして両身あるが如く>といっているが、まさにその通りで研究者そして教育者の二つの顔で江戸・明治を生き抜いた。
 研究の対象はオランダ語から英語に変わるが、英語においては、その研究範囲は哲学・教育・歴史・文学・経済・思想・科学など学問のほとんどの分野におよんでいる。慶応義塾は創立時から総合大学であったのだ。福沢は研究したものを啓蒙のため翻訳して世に流布させた。私たちが現在使っている「簿記」「競争」などは福沢による訳語である。「競争」は欧米の資本主義社会における自由主義の原理の本を訳したときに福沢が考えついたものである。
 研究と教育を二つの柱として「福翁自伝」ではいろいろなことが語られる。そのほとんどが現代に生きる私たちにとっても示唆に富むものである。「福翁自伝」を初めて読んだとき次の二つの話に特に感動した。
 一つはオランダ語を極めた福沢が開港間もない横浜に行ったときの話で、福沢は横浜の外人居留地を歩いていると愕然とする。福沢は外国の建物に掲げられた看板の文字の意味が全くわからなかったのである。福沢はあれだけ血をみるようにして勉強したオランダ語が役に立たず、逆に英語が世界で通用する言葉であることを理解する。福沢はすぐに英語の勉強をすることを決心する。
  もう一つは福沢がヨーロッパに行ったときのことである。福沢はエレキトル、蒸気、印刷などにはあまり興味を示さなかった。福沢が興味を示したのは病院、銀行そして徴兵令、選挙法などである。福沢は西洋社会の豊かさの土台となっているシステムに興味を示したのである。福沢は的確な情況判断ができ、そして物事の本質を見る目を持っていたのである。

 個人の福沢は全く私心のない人であった。私が福沢を好きなのは何よりも彼が権力と一線を劃(かく)したからだ。権力にすりよるようなこともなかった。明治政府から何度となく政府の要職についてくれないかと依頼されたがすべて断っている。
 私心のなさは福沢の教育理念にも現れている。勉強とは本来目的のないものだとして次のようにいっている。
 <宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何(どう)したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入(はい)るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨(うま)い物を食い好(い)い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。>
 これを現代流に解釈すると外発的動機付けではなくて内発的動機付けで勉強せよということであろう。
 私は「福翁自伝」を読むことで、福沢諭吉という偉大な人格に接する思いがする。

 私の住むアパートの狭い玄関には福沢の書いた「心訓」が額に飾られている。「心訓」は7つの教えからなっている。私がつねに肝に銘じているのは次の教えである。
 1 世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと云う事です。
 1 世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です。
 1 世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩にきせない事です。 

(写真:現在の横浜駅西口、横浜の地は福沢諭吉を語る上で重要な場所のひとつです。)

 
福沢諭吉「学問のすゝめ」を読む

慶応義塾大学にある福沢諭吉像 安政6年(1860年)、福沢諭吉は木村摂津守を艦将、勝海舟を艦長とする咸臨丸に乗ってアメリカに行った。そして、その2年後福沢は幕府の遣欧使節に随行し、ヨーロッパへと行く。この2つの視察で、福沢は欧米の文明のすごさをまざまざと見せつけられた。と同時に欧米列強の怖さも知ることになる。
  とくに、ヨーロッパへの行きと帰りに福沢はシナ(現中国)・インドの諸港において、その住民たちが唯々諾々とイギリス人の使役に服して恥じることのない姿を垣間見た。当時、インド・香港はイギリスの植民地であった。

 幕末から明治を通じて、日本はつねにインドや香港のような運命になる危険な状態にあった。幕末に結んだ欧米列強との条約はどれも不平等条約であった。国内では政権をとった薩長閥は急速に欧化政策へと向かっていった。
 進取の気性に富み、当時の最大の知識人であった福沢はなによりも日本の独立を考えていた。彼は一日も早く日本を完全な独立国にしようと、民間の立場で主張した。福沢にとって、日本を独立させるためには、人民にたいして蒙を啓(ひら)くことであった。福沢は日本人をイギリス人に使われて何も文句をいわないインド人そしてシナ人みたいにしたくなかったのである。民心を一新させようと書いたものが「学問のすゝめ」である。

 「学問のすゝめ」は17編からなっている。第1編は明治5年に書かれ、同9年に第17編を書き終わるまで継続的に書き継がれたものである。1編1冊として出版され、明治13年までに70万冊も売れた大ベストセラーになった。「学問のすゝめ」がかくも売れたのはなぜであろうか。やはり、日本の将来を憂いていた人が多かったからだろうか。それよりもなによりも私には「学問のすゝめ」がそれまでの常識を覆す全く新しい形の本だったからこそたくさんの読者を惹きつけたのだと思われる。

 「学問のすゝめ」は読んで字のごとく、学問をすすめる書である。ただ、福沢のいう学問とは曲学ではなく実学である。実学とは自然科学・経済学そして読み書きそろばんなど社会が必要とする学問のことである。
 「学問のすゝめ」の底に流れる思想は民主主義である。民主主義とは人民に主権が存在する社会である。政府は本来人民から選ばれた人たちで構成されるべきもので、政府が人民の主人ではなく、人民が政府の主人であると福沢は唱える。ただし、人民は政府の主人といっても、政府と人民との間にはおのずからルールが存在する。そのルールが法律であるとも福沢はいう。法律を守ることは人民の必然であることを福沢は力説するのである。 とくに、このことは第6編「国法の貴きを論ず」、第7編「国民の職分を論ず」でくわしく述べられている。法治国家の視点から福沢は赤穂浪士の義挙や楠木正成を否定する。このことが発表されると相当な物議を醸しだし、福沢はそれに対して反駁する。
  私は明治の初頭に主権は人民にあると明快にわかりやすく唱えた福沢の見識に脱帽する。

 「学問のすゝめ」の第1編は有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」で始まる。福沢は終生門閥制度を憎んだ。人間は生まれながらに平等である。それではなぜ、ある人は成功し、ある人は失敗するのか。それはやはり自分の問題であると福沢は言及する。学問はその自分の問題に深く関連すると私には思える。
 福沢の思想は現在でもその新鮮さは薄れない。私には福沢の言葉は「最後は自分だぞ。自分を磨け」といっているように思える。
 自立した人間、それは自分の考えでもって事を処する人である。ただ、自分の考えは独断と偏見であってはいけないとも福沢はいう。福沢は舌鋒するどく、学者といわれる人たちを攻撃する。
 「文字を読むことのみを知って物事の道理を弁えざる者は、これを学者と言うべからず。いわゆる論語よみの論語しらずとは即ちこれなり。」
 広く知識を得て、それを分析して自分の考えを主張する。これはなにも福沢の生きた時代が要求したものでなく、現在でも必要な姿勢である。これぞ自立した人間である。自立した人間が多くでれば必然的に国も自立していくと福沢は考える。

 「学問のすゝめ」を読むと、福沢がいかに見識が広く深いかがわかる。自然科学・政治学・経済学・宗教学・歴史学・商学なんでもござれである。福沢は日本を救うには学問であると真剣に考えたに違いない。私はこのことを「学問のすゝめ」を読んで痛切に感じた。

※:写真は、慶応義塾大学構内にある福沢諭吉像です。

 
福沢諭吉「文明論之概略」を読む

 文芸評論家の江藤淳は福沢諭吉をたいへん高く評価していた。江藤はいたるところで、福沢について論じている。
 私が福沢の著作を読むようになったのは、江藤がたびたび福沢について言及するからだ。初めは、福沢が江藤の母校の慶応大学の創立者だから、江藤は福沢のことを持ち上げるのだと愚かにも私は感じたのだが、福沢の著作を読み進むうちに、福沢諭吉がとてつもない巨人に見えてきた。慶応大学とは関係なく、江藤ほどの評論家なら福沢を高く評価するのももっともだと思った。
 <一身にして二生を経るが如>と、福沢が自ら述べているように、福沢は波乱万丈な人生を歩んだ。もちろんそれは、福沢が意図したというよりも、時代が福沢に要求したのであろう。幕末から明治を通して、日本は福沢のような大知識人を必要としたからである。幕末から明治において日本の社会は劇的に変化している。そのような時代こそ日本の現状分析ができ、日本の歩む道をわかりやすく提示できる神様みたいな人が必要だったのである。
 福沢は数回の西洋への旅行を経験しており、日本がいかに西洋に遅れているかを痛感していた。遅れるだけならまだいいが、福沢は日本が清やインドみたいに西洋に植民地化されるのを極度に恐れた。福沢はとにかく、西洋と付き合いながら、日本の独立を守ることを真剣に考えたのである。そのため、たくさんの啓蒙書を書いた。その1つが「文明論之概略」である。

 「文明論之概略」は明治7年頃に書かれた、タイトルが示すように、文明について書かれたものである。6巻で全9章から成っている。
 結論からいうと、福沢にいわせると、文明とは独立のことである。独立するためには文明が必要だということである。この本は日本の独立を守るために書かれたのである。
 「文明論之概略」は文明についていろいろな角度から言及している。西洋・中国・日本の歴史からキリスト教・儒教・仏教の宗教について考察し、そして、政治・経済・科学まで論を進めている。一読して、私は福沢というのは途方もない勉強家であると驚愕した。福沢ほど多面的に日本を考察した知識人は、近代以降の日本にはいなかったのではなかろうか。ただただ、私は畏れるばかりであった。
福沢は英語で書かれた原書を参考文献として書き進めている。ギゾーの「ヨーロッパ文明史」、バックルの「英国文明史」、ミルの「経済学原理」、「自由論」、「代議政治論」などである。英語の原書の他に、「論語」、「孟子」はいうにおよばず「老子」、「史記」さらに「読史余論」、「日本外史」なども引用している。おそらく読めるだけの文献を読んで、文明についての考察を行っていたのであろう。
 福沢は西洋人が絶対的に優秀だといっているわけではない。日本にも西洋人より優秀な人はたくさんいるといっている。しかし、国としての文明の度合いははるかに日本は西洋に劣っていると断じている。
 日本が西洋に較べて文明の度合いが劣っている理由を福沢は追及していくのであるが、その1つが、日本は徳を重んじ過ぎるということである。元来日本人は智徳を尊重してきたが、福沢は徳ばかりを偏重して智を重んじていないと喝破するのである。
 別に福沢は徳を否定しているわけではない。徳も大事だが、それ以上に智が大事だといっているのである。智というのは知識と知恵を合わせもったものである。
 結局、西洋人は日本人より智において優れており、それが文明の差になっているという。西洋は独立国家として国力を増すために知識と知恵を総動員して国を揚げて努力しているのである。その結果が自由・平等であり、その上での市場経済の発展である。お金が動いているだけでは経済は発展するものでないと福沢は見抜いていたのである。
 福沢は何としても日本の文明を西洋のレベルまで高めたいと思った。そのために、日本人は知識や知恵を身に付けなければならないといい、それを邪魔する儒教的な教えを攻撃するのである。
「文明論之概略」のいわんとしていることは、日本が独立国家として西洋と伍していくためには、日本人が勉強して知識と知恵を身に付けなければならないということである。国民の民度が上がらなければ文明国家にはならないのである。

 福沢は若い頃、アメリカとヨーロッパを旅したとき、それらの国々を豊かにしているシステムは何かを考え、そしてそのシステムを可能にする西洋人の思想・理念に行き当たったのである。
「文明論之概略」は西洋人のものの考え方を追求した結果できあがった福沢の文明論であるように私には思われた。

 

 中央区築地にある慶応義塾発祥の地

写真は、中央区築地にある慶応義塾発祥の地です。

 
作文道場福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち)
天保5年12月12日(1835年1月10日)-明治34年2月3日(1901年2月3日))。
豊前中津藩士(大分県)、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者。慶應義塾創設者。明治の六大教育家のひとり。
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