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読書感想文
 
二葉亭四迷「浮雲」を読む

染井霊園 二葉亭四迷墓所 二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助。落語家のような筆名の由来が“くたばつて仕舞へ”からきているのはつとに有名である。
 四迷はツルゲーネフの「あひびき」などロシア文学の翻訳で頭角をあらわすのだが、彼が東京外国語学校(現東京外大)の露語科に入学したのはロシア文学を研究するためではなかった。四迷はもともとは軍人志望であったが、陸軍士官学校受験に3年続けて失敗する。やむなく東京外国語学校に進んだわけだ。なぜ、軍人になりたかったのか。それはロシアから日本の国を守るためである。1904年の日露戦争が起こる火種は幕末からずっと燻っていたのである。ロシア語科入学も純粋にロシア語の習得のためであり、敵国ロシアを知るためのものだったのである。
 四迷をロシア文学の道へ走らせたのは、ドストエフスキーの「罪と罰」であった。「罪と罰」によって、四迷は西洋文学の奥の深さを知ったのである。
 四迷は東京外国語学校もやめてしまう。学制改革で東京外国語学校が高等商業学校(現一橋大)に吸収されたからである。「何で俺が商人なんぞにならなければならないのか」がやめた理由であるのもこれまた有名な話である。

 二葉亭四迷というのは私にとって何ともいえない巨人である。とにかく「浮雲」を読んだときのあの衝撃は今も忘れない。私も四迷と同じように「罪と罰」には衝撃を受けたが、それに劣らず「浮雲」も衝撃的であった。感動ではない、衝撃としかいえない体験であった。今回、読み直して、衝撃はさすがに受けなかったが、日本文学の金字塔であるという思いを新たにした。
 明治20年に「浮雲」が書かれたのは、日本近代史の一つの奇跡だと私は思っている。坪内逍遥が「小説神髄」で西洋の小説の紹介をして、小説とはこうではないかと説きながら、彼の書いた「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」はいたく期待はずれのものであった。まだまだ近代文学とはいえるしろものではなかった。
 ところが、「浮雲」は言葉の上ではまだまだ古めかしいところもあるが、見事に小説になっていた。この作品が現代書かれたとしても十分通用すると思う。
 なぜ、「浮雲」が衝撃的であったのか。それはこの作品が“理想と現実”のギャップに悩む青年の心理を赤裸々に描写しているからである。

 「浮雲」の主人公は内海文三である。その脇を、おばのお政、その娘お勢、そして文三の元同僚の本田が固めて、物語は展開していく。
 文三は准判任官御用係という下級官吏で、おばのお政の家に下宿している。お政はそれなりに文三に好意を寄せ、ゆくゆくは娘のお勢を文三に嫁がせようと考えている。文三とお勢はたいへん仲がよかった。
 ところが、文三は官制改革で、役所をくびになってしまう。物語は、文三が役所をくびになって、役所から同僚の本田と帰るところから始まる。文三は躊躇しながらも役所をくびになったことをお政に伝える。当然のようにお政の文三を見る目が変わる。お勢の心も文三から離れていき、それにひきかえ文三の元同僚である俗の塊である本田がお勢と仲良くなるにつれて、文三は猛烈な嫉妬にかられ、嫉妬が高じて、どうしようもない苦悩におちいる。
 登場人物は4人、そして舞台はお政の家の1階の茶の間と2階の文三の部屋。文三の悩みの核は、蓮っ葉な娘のお勢の心をいかに自分にひきつけるかであった。これだけのシチュエーションではあるが、「浮雲」の描く世界は広くそして深い。宇宙的とさえいえる。これは間違いなく、文三の苦悩を微に入り細を穿って描いているからである。苦悩を描くことはとりもなおさず、人間そのものを描くことである。
 残念ながら「浮雲」は未完に終わっている。最後の第三編は作者がだいぶ苦労したあとが見える。おそらく考えに考えぬいても結末がイメージできなかったのであろう。「浮雲」がいかに深い小説かの証明でもある。

 二葉亭四迷は寡黙な人であったという。四迷は師として仰ぐ坪内逍遥のもとへ通い、逍遥と文学について語り合う。四迷はぼそりぼそりと朴訥に語ったという。逍遥はそのような四迷に対して、重厚なものを感じ、そして畏敬さえもつようになる。
 二葉亭四迷は作家としては、「浮雲」の他に「其面影」、「平凡」くらいしか書いていない。46歳という若さで、ロシアから日本に帰る船の中で亡くなった。
 未完の「浮雲」を残しただけでも、私は、四迷を奇跡の人だと思う。

 
二葉亭四迷「其面影」を読む

東京四谷 二葉亭四迷旧居跡 二葉亭四迷は文学が嫌いな文学者であった。世間をあっといわせた「浮雲」を未完で書き終わってから、二葉亭は内閣官職局職員になったり、東京外国語学校や陸軍大学校でロシア語を教えたり、はたまた中国に渡って北京の警察学校の事務長などをやったりして、一向に小説を書く気配がなかった。
 もともと二葉亭は軍人志望で、文学などやる気は毛頭なかった。陸軍士官学校を落ちて、東京外国語学校のロシア語科に進み、文学の道に踏み込んでしまったのである。
 二葉亭に小説を書かせるきっかけとなったのは、日本で初めて文学博士になった坪内逍遥と知り合ったことである。坪内は当時、文学の第一人者で、二葉亭はよく坪内と文学や人生について語り合った。
 二葉亭は寡黙な男で、坪内と話すときは、ぼつぼつとよく聞き取れないような小声で話し、二人の会話は途切れがちで、沈黙がしばらく続くこともあったという。それでも、二葉亭は足しげく坪内のもとへ通った。二人ともお互いを尊敬しあっていたが、特に、坪内は二葉亭の才能を高く買っていた。
 なまじっか才能があったばかりに文学の道に迷い込んだ二葉亭であるが、「浮雲」を書いて以来、小説を再び書いたのは何と約二十年後であった。
 長い放浪の末、二葉亭は朝日新聞に入社した。本人は政治記者として入社したのであるが、朝日新聞の重鎮の池辺三山が二葉亭を放っているはずがなく、池辺の執拗な催促に負けて、二葉亭は朝日新聞に小説を連載した。その小説が「其面影」である。

 「其面影」を読んだとき、私は明治の知識人とは何と哀れなものであるかと嘆息した。「其面影」の主人公小野哲也は一高から帝大に進み、帝大では優秀な成績を修めて回りから秀才と誉めそやされた。官界に進めばよかったのに、学問の世界に進んでしまった。
 哲也は結婚しているが、婿養子である。一高に在学中、実家からの仕送りが途絶えたので、しようがなく小野礼造の養子になった。哲也が無事に大学を卒業すると、小野は死に、哲也は小野の長女の時子と結婚した。時子には腹違いの妹の小夜子がいた。小夜子は小野が小間使いに生ませた娘である。
 大学時代の優秀さはどこへやら、哲也は学問の世界でうだつが上がらず、二、三の私立学校でつまらない授業をしている身である。収入も帝大時代の同級生と較べるとはるかに少なく、生活はつつましやかであった。贅沢になれたお嬢さん育ちの時子は不満たらたらである。
 哲也はつまらない思いをして生活していたが、たのしみもあった。それは、実家すなわち哲也の住む家に出戻っていた小夜子に会えることであった。小夜子は嫁いでいったのであるが、夫が急逝したので、実家に戻っていた。小夜子は時子とは性格がまったく違い、時子と義母に苛められていた。
 小夜子はしとやかで美しい娘であった。いつしか、哲也と小夜子は恋仲になり、それが時子にばれて、小夜子は家を追い出され、続いて哲也も家出同然に家を出た。
 二人は同棲するが、クリスチャンである小夜子は罪の意識に苛まれ、小夜子は哲也のもとから逃げ出した。
 哲也は狂ったように小夜子を探しだすが、見つけることはできなかった。いつしか哲也は自暴自棄になり、請われるままに中国の学校に赴任するが、教頭を殴って学校をやめた。それからの哲也は坂を転げ落ちるように堕落し、アルコール中毒になり、しまいには、乞食同然の境遇になった。
物語はここで終わる。

 理想と現実。明治の知識人はこの二つの間でもがき苦しんでいたのだなと、私は痛切に感じた。

 
二葉亭四迷「平凡」を読む

千代田区一ツ橋 東京外国語学校(現東京外国大学)発祥の地 言文一致体の象徴として崇め奉られている二葉亭四迷の「浮雲」は、その現代性において衝撃的であるが、同じ二葉亭の「平凡」はその滑稽さにおいて衝撃的である。
 私にとって二葉亭は文豪である。夏目漱石・森鴎外に匹敵するような存在だと、私は見ているが、二葉亭の書いた作品は驚くほど少ない。たいして長くもない小説がたったの三作である。それも一作目の「浮雲」は未完小説である。
 それでは何故、私は二葉亭を文豪と思っているのか。それは二葉亭が、漱石・鴎外に負けず劣らず国のことを真剣に考え、人生について思い悩んだからである。二葉亭のユーモアは深い悩みが土台になっている。悩む文学者として、私は二葉亭の右に出るものはいないと思っている。
 二葉亭は「浮雲」を未完のまま終わらせたあと、小説を書かなくなった。書けなくなったといってよい。それからの二葉亭の人生は放浪の人生といってよいものであった。中国に渡って、大陸浪人のようなこともした。二葉亭は日本のことを熱く思う国士であり、繊細な感情をもった放浪詩人であった。
 二葉亭の生活は荒んだが、1902(明治35年)、朝日新聞の記者になった。二葉亭は後に朝日新聞の小説記者となる漱石と同じように新聞紙上に「其面影」と「平凡」を連載した。因みに、その二つの小説の間に連載されたのが漱石の「虞美人草」である。
 「平凡」の連載が終わると、二葉亭は朝日新聞特派員としてロシアに赴くが、その地で肺炎にかかり、帰国の途上、死去した。

 「平凡」は二葉亭にとって最後といっても三番目の作品である。二葉亭はこの作品を失敗作といっているらしいが、とんでもない。たいへんすばらしい作品である。この作品が書かれてから100年以上も経過しているというのに、作品のみずみずさは失われていない。私は何回となくこの作品を読み返した。
 「平凡」は39歳になるまさに平凡な生活を送るしがない下級官吏の「私」が、後悔の念を込めて書いた自叙伝である。いわゆる当時流行していた自然主義文学にならって、ありのままの現実を赤裸々に書こうとしたのである。ところが、自然主義文学では、現実をありのままに描くと全くといってよいほどつまらないが、二葉亭の筆になると、滑稽でたいへんおもしろい。それは自然主義文学では、小説を作家の生き方の弁明に使っているふしがあるのに対し、二葉亭は自嘲気味に書いているからであろう。
 「私」は幼い頃からの体験を書き綴るのであるが、最も後悔しているのが、学校を中退して、小説家になろうとしたことである。小説を書いて少しばかり名が売れたのはよいが、下宿の変な女にひっかかって、父親の死に目に会えなかった。「私」は小説家などになろうとせずに、真面目に学校を卒業して、法律家になればと、慙愧の念で思いやっているのである。
 主人公が今までの人生で最も悲しかったのは、「私」が10歳のときに飼っていた犬のポチが殺されたことである。「私」はポチをたいへん可愛がった。ポチはいつも「私」が学校へ行くときに、ついていこうとした。「私」はポチをうまく家に置き去りにすることに苦労した。学校が終わると、「私」は無理してポチのために食べ残した弁当を持って、一目散に家に帰った。ある日、ポチは「私」が学校にいる昼間、往来をぶらついていた。このとき、野良犬と間違わられ、犬殺しに連れ去られたのである。「私」の嘆きはいかばかりであったろうか。おそらく、ポチは「私」が人生で最も愛した対象ではなかったのかと思う。

 「私の人生に悔いはない」と誇らしげにいう人がいる。私はこの言葉を聞くと、いつも本当かなと思う。私は年齢を重ねるごとに、後悔とはやはり後に立つものだと実感する。「私の人生は悔いだらけ」と声高にいったのは遠藤周作である。さすが、大作家の言葉であると私はつくづく思った。

 
作文道場二葉亭四迷(ふたばていしめい)。
元治元年2月28日(1864年4月4日) - 明治42年(1909年)5月10日。
小説家、翻訳家。江戸市ケ谷生まれ
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