数学道場、総合案内
line decor
 
line decor
はじめに
日本文学編に戻る
 
line decor
読書感想文
 
トマス・ヒューズ「トム・ブラウンの学校生活」(イギリス)を読む

多磨霊園 新渡戸稲造像 新渡戸稲造は、第一高等学校の校長に就任する際、第一高等学校をどのような高校にするかに悩んだ。それまでの第一高等学校は武士階級の子弟が多く、学校の雰囲気は藩校のようで、儒教教育が強いものだった。
 新渡戸が出した結論は第一高等学校をイギリスのパブリックスクールのような学校にすることであった。イギリスのパブリックスクールというのは、直訳すると「公立学校」という意味だが、日本でいう公立学校とはだいぶ違う。独立した学校で、授業のカリキュラムはそれぞれの学校で独自に作成する。かなり自由な私立学校といってよいほどである。 パブリックスクールはいわゆるエリート学校で、裕福な家の子弟が集まる学校である。生徒は8〜10歳ぐらいに入学して大体18歳ぐらいに卒業し、そしてオクスフォードなどの大学に進学していく。学年は1年級から6年級まであり、無事6年級を終えると卒業となる。怠けているような生徒は容赦なく落第である。今の日本でいうと、小学校高学年と中高一貫校を合わせたような学校である。
 パブリックスクールの第一の教育目標は国のリーダーを育成することである。ノーブレスオブリージェとはパブリックスクール卒業生のためにあるような言葉である。パブリックスクールの卒業生は世間から尊敬され、高い地位を与えられるが、国に一旦緩急(かんきゅう。さしせまった事態になること)あれば、最前線で身を賭して真っ先に戦わなければならない。第一次・第二次大戦のとき、多くのパブリックスクール卒業生が戦争の最前線で死んだ。
 「チップス先生さようなら」のチップス先生はパブリックスクールの先生であったが、たくさんの教え子たちを第一次大戦で亡くしたことを終生悲しんだ。
 国のために真っ先に命を張って戦う勇気と、弱いものに対しては慈愛の気持ちをもつ人間を養成することがパブリックスクールの使命であった。
 新渡戸が第一高等学校をパブリックスクールのようにしようとしたときに参考にした本がトマス・ヒューズの書いた「トム・ブラウンの学校生活」である。トマス・ヒューズはパブリックスクール出身で、愛情となつかしさを込めてこの小説を書いている。

 トム・ブラウンは名家の子供であった。やんちゃで年がら年中野原をかけまわって遊びほうけている子供であった。
 トムは9歳のとき、パブリックスクールのラグビー校に入学した。ラグビー校はパブリックスクールの中でも名門中の名門で、特にスポーツに力を入れていた。ラグビーというスポーツの名前もこの学校の名に因んでつけられたという。ラグビーだけでなく、ラグビー校ではクリケット・フットボールも盛んであった。
 パブリックスクールは全寮制である。トムはラグビー校に入学すると、校長寮に入寮した。生徒はそれぞれ、寝る部屋だけでなく、勉強部屋も与えられる。トムはイーストという生徒と勉強部屋が一緒になった。トムとイーストはすぐに仲良くなった。
トムとイーストは遊び好きでよく学校の規則を破った。二人はいたずらもよくやった。二人の目に余る行動に対して、校長は悩んだ。
 トムは平気で上級生とも喧嘩した。トムが変わったのは、アーサーというおとなしい生徒がラグビー校に入学し、校長にアーサーの面倒を見るように命じられてからだ。アーサーは父親を早くに亡くし、美しい母親一人の手で育てられた。敬虔なるクリスチャンで聖書を暗記するぐらい勉強した。しかし、性格がやさしく体がひ弱であったので回りからいじめの対象になった。
 トムは体を張ってアーサーを守った。そのために上級生とボクシング(実は殴り合い)の試合をした。アーサーと付き合っていくうちに、トムも聖書を真剣に勉強するようになり、他の教科の勉強もするようになった。
 トムは無事に卒業し、オクスフォード大学に進学した。そのときのトムはノーブレスオブリージェを背負った立派な若者であった。

 第一高等学校の卒業生が日本の国のために体を張ったことが、「トム・ブラウンの学校生活」を読むと、何となくわかる気がする。

※:写真は、多磨霊園に建っている新渡戸稲造像です。

 
作文道場トマス・ヒューズ
(1822年10月20日-1896年3月22日)
読書感想文・小論文の添削は作文道場へ
line decor
株式会社河野 株式会社河野 Net個人指導道場
Copyright © 2007-2016 KOHNO.Corp All Rights Reserved.