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はじめに
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読書感想文
 
アントン・チェーホフ「かわいい女」(ロシア)を読む

 かわいい女とはどのような女をいうのであろうか。人によってその定義はそれこそ千差万別であろう。
 作家の仕事の1つは自分で描いたイメージを1つの人格まで具体的にしぼりこむことであろう。光源氏は1つの人格であり、坊っちゃんも1つの人格である。
 チェーホフの「かわいい女」を読んだとき、まず思ったのは、主人公のオーレンカがタイトル通りかわいい女であり、1つの人格であったということだ。オーレンカはとびきり容姿がすばらしいというわけではなかった。
 チェーホフの生きた時代は激動の時代で、混乱した暗い時代でもあった。旧来のすべての価値観が否定されつつあった時代である。
 チェーホフは1860年に生まれ、1904年に死んでいる。わずか44年の生涯である。死因は結核であった。1904年は日露戦争開戦の年である。チェーホフが死んでから13年後にロシアにおいて人類史上初めての社会主義の国が誕生した。
 ロシアを支えてきたロマノフ王朝を頂点とする封建的な考え方、そして新しく湧き起こったブルジョワ的な考え方などが否定されていく中で、作家チェーホフが創りだしたのがつねに人を愛さずにいられないかわいい女であった。人が人を愛することは誰でもができる当たり前のことのようであるが、なかなか心底から人を愛することは難しい。そこにはどうしても感情以外の打算・利害などがからむからである。
 子が親を思うことは倫理ではなく自然の情であると喝破したのは太宰治である。チェーホフは人が自然に人を愛するという人間の原初的な本能をもった人格を見事に掘り起こしたのである。そういえば太宰もチェーホフの大ファンであった。

 オーレンカは退職した八等官の娘であった。オーレンカは気立てのいい、情にもろい娘でなにより健康的であった。オーレンカはよく「かわいいひと!」と呼ばれた。
 オーレンカはいつも誰かを愛していなければならない女であった。オーレンカは2度の結婚をした。最初の結婚の相手は遊園地の経営者のクーキンであった。遊園地の経営は苦しく、結婚前、クーキンはいつもオーレンカに愚痴をいったが、オーレンカはこの男を愛して結婚した。オーレンカは遊園地の切符売りなどをして夫の仕事を助けた。結婚生活は幸せなものであった。しかし、クーキンはモスクワ出張中に突然死んでしまった。オーレンカは未亡人になった。
 クーキンの死後、オーレンカは毎日悲しみにくれていたが、ある商人の材木置場の管理人をしているプストワーロフという男になぐさめられた。まもなくオーレンカはプストワーロフと結婚した。
 プストワーロフとの結婚生活もオーレンカは幸せであった。オーレンカは材木まで愛するようになった。ところがその幸福も6年間だけしか続かなかった。結婚して6年目にプストワーロフも死んでしまった。
 悲しみに落ち込んだオーレンカにはスミルニンという連隊付きの獣医の友達がいた。この男は妻と別れ、息子1人の面倒をみていた。ある日、孤独になったオーレンカのもとにスミルニンが妻と息子をともなって訪ねてきた。スミルニンは妻とよりを戻したのであった。オーレンカは再会を喜び、3人を自分の家に住まわせた。息子の名はサーシャといった。
 一緒に住むようになってからいつしかスミルニン夫妻は家に居つかなくなった。オーレンカがサーシャの一切の世話をするようになった。そしてオーレンカはサーシャを実の子のように可愛がった。と同時にオーレンカは毎日不安であった。サーシャが親たちに連れ戻されるのではないかと恐れていたのである。彼女は毎日サーシャがいつまでも自分の手許にいることを祈った。

 「かわいい女」が最高の短編であるのは愛するものがいなくなることにおびえ続ける心理を見事に描いたことにあるともいえる。
 愛すべきものが失われていくことに当時のロシア人が日々不安を抱いていたことと重ね合わせて考えてみると、この短編の意味はより重くなるような気がする。

 
アントン・チェーホフ「桜の園」(ロシア)を読む

 太宰治が愛してやまなかった作家の1人はチェーホフである。「斜陽」の主人公が愛人の作家に送る手紙で作家のことをMC(マイチェーホフ)と呼んでいる。「斜陽」は何回となく読んだが、マイチェーホフについては気にもとめなかった。ところがチェーホフの「桜の園」読んだとき、太宰はかなり象徴的にマイチェーホフを使ったのではないかと思った。
 「桜の園」はチェーホフの4大劇(「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」)の最後の作品で、最晩年の作品といってもよい。チェーホフの生きた時代は革命前の激動の時代であった。チェーホフの生まれた翌年には農奴解放令が出されている。この解法令でもってそれまで奴隷のような農奴が自由民になった。ロシア封建主義の大変革である。以来、ロシアは混沌を極め、約60年後人類史上最初の社会主義国が誕生した。チェーホフは革命に向かっていくロシアの姿をつぶさに観察していたのであろう。
 医者であったチェーホフが作家になったのは、変わりゆくロシアを見て何かを表現せざるを得なかったからであろう。その何かとは、何が消えてゆき、何が新しく生まれようとしているかであったに違いない。
 「斜陽」の主人公が愛人の作家のことをマイチェーホフと呼んだのは、その作家(いくらか太宰自身をモデルにしている)が消えていく運命にあることを示したのであろうか。太宰自身も「斜陽」を書き上げたあと、まもなくしてこの世からいなくなっている。それほどあの戦争直後は日本の大きな変革期であったのだ。
 チェーホフは驚いたことに「桜の園」は喜劇だといっている。私にはとても喜劇だとは思えなかった。たいへん身につまされた。やはり時代が変わっていくということを人間は嫌うのではないだろうか。変化が進歩を生むというのはわかっていても変わらないでいたいと思うのが人間の人情ではないか。「桜の園」はその人情を哀しいまでにリアルに描いている。時代の変化を認めたくなかったら太宰みたいに自ら世を去るしかないのであろうか。

 「桜の園」は没落した貴族の娘であるラネーフスカヤが主人公の4幕の喜劇である。
 劇はラネーフスカヤが5年振りにフランスから生まれ故郷の生まれ育った家に帰ってくるところから始まる。ラネーフスカヤの父は広大な土地とたくさんの農奴を抱えていた。だが、農奴解放令以後、一家は没落した。ラネーフスカヤは家と土地を相続したが、今では莫大な借金のため土地と家が競売に付されようとしていた。
 ラネーフスカヤの土地も広大で、その中ではたくさんの桜の木が植えられ、桜の園といわれてその県の名所になっていた。ラネーフスカヤは桜の園で子供の頃よく遊んだ。桜の園だけでなく、家も庭もすべてラネーフスカヤには懐かしく決して失いたくないものであった。しかしラネーフスカヤはすべて失う状況にあった。彼女にはなすすべがなかった。 競売に付された桜の園は商人のロパーヒンが買い取った。ロパーヒンの父はラネーフスカヤの父の領地の農奴であった。元農奴の息子が主の貴族の土地と家を買ったのである。ラネーフスカヤは結局、再び生まれ故郷を追われるようにフランスへと旅立つ。
 ラネーフスカヤにはアーニャという17歳の娘とガーエフという兄がいる。トロフィーモフという大学生がアーニャに恋していた。「桜の園」ではラネーフスカヤとガーエフが過去の人間、アーニャとトロフィーモフが未来の人間として描かれている。
 劇中、2度ほど不思議な音が聞こえてくる。それは天から響き、弦が切れたような音でしだいに悲しく消えていく。この音は変化の象徴なのであろうか。80歳を超えたラネーフスカヤの老僕は農奴解法令のときにも同じような音が聞こえたといった。

 「桜の園」が喜劇だとはどうしても思えない。私が時代の変化を好まないからであろうか。ここでふっと再び「斜陽」のことを思ってしまう。「斜陽」の主人公は手紙で愛人の作家のことを3つのMCで呼ぶ。1つはマイチャイルドでもう1つはマイチェーホフそして最後がマイコメディアンである。はたして「斜陽」も喜劇であったのであろうか。

作文道場アントン・チェーホフ
 1860年-1904年。南ロシアの港町タガンローグに生まれる。16歳の時に家が破産し、モスクワ大学医学部に入ると同時に家計を支えるため、雑誌・新聞に短編や雑文を執筆。7年間で400編以上の作品を発表して文名も高まったが、安易な名声に満足できず、本格的な文学を志向するようになる。人間観察に優れた短編の他、晩年には戯作主力を注いだ。<新潮文庫、「かわしい女」小笠原豊樹/訳 より引用>
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