数学道場、総合案内
line decor
 
line decor
はじめに
日本文学編に戻る
 
line decor
読書感想文
 
フョードル・ドストエフスキー「悪霊(あくりょう)」(ロシア)を読む

 私が大学生の頃、内ゲバという新左翼系のセクト同士の殺し合いが行われていた。私の通う大学の学生も内ゲバで殺されたことがある。同じ思想をもった人たちがなぜ殺し合いをするのか、私には疑問だった。そんなとき、手にしたのがドストエフスキーの「悪霊」であった。
 「悪霊」はロシアで実際にあった内ゲバ殺人事件をモデルにした小説である。私はその内容に興味を惹かれて読もうとしたのだが、それ以上に「悪霊」を読もうとした動機は、新潮文庫の「悪霊」の翻訳者が私の通う大学のロシア語の教授江川卓であったからだ。私は江川先生とドストエフスキーの話をしたくて、そのきっかけ作りのために「悪霊」を読んだともいえるのである。
 私はそれまでドストエフスキーは読んだことはなかった。ドストエフスキーは難解だといわれていたが、ドストエフスキーを読まなければ文学はわからないともいわれていた。 予想に違わず「悪霊」は難解であり、たいへん退屈でもあった。私は読むのを止めようかと思い、思わず江川先生の研究室を訪ねた。先生は「悪霊」の上巻はおもしろくないから、下巻から読めばよいとすすめてくれた。さすがに下巻から読むわけにもいかず、苦痛を覚悟で1日30ページはどんなことがあっても読むと決めて読了した。先生のいうとおり下巻からおもしろくなった。私のドストエフスキー体験の第一歩であった。
 私は「悪霊」について感じたことを先生に話した。先生はじっときいてくれた。以来、私はドストエフスキーの作品を読み終えると先生の許へと向かった。そして、先生は生涯に渡って私の師になった。私は先生から小説の読み方を教わったつもりである。
 さて、「悪霊」についてであるが、読み終えたもののやはり主題は何かがわからなかった。ドストエフスキーは「悪霊」で一体何をいいたかったのか。その後読んだ「罪と罰」と較べて「悪霊」はたいへんわかりにくい小説であった。それでも思想的・哲学的深さにおいては「カラマーゾフの兄弟」に匹敵するものではないのかと思った。
 「悪霊」を何回となく読み直すうちに、私は何となくドストエフスキーは内ゲバ殺人事件を描くのが真の目的ではなく、本当の目的はスタヴローギンという悪魔ともとれる複雑な人間を描くことにあったのではないかと思うようになった。あの小林秀雄はドストエフスキーの作品の登場人物の中で特にスタヴローギンに注目している。スタヴローギンは物語の最後自殺をするのであるが、その原因は衝撃的である。

 「悪霊」はネチャーエフ事件をモデルにした小説である。その事件は体制を転覆させようとした秘密結社が組織の結束をはかるために裏切り者を殺した事件である。ネチャーエフとは事件の主犯のことである。
 「悪霊」の中ではネチャーエフの役割はピョートルが演じている。ピョートルを動かしている、すなわち秘密結社の総帥がスターヴローギンであるという設定である。
 あるのどかな田舎町で事件は起こった。シャートフという学生が拳銃で頭を撃たれ殺されたのである。シャートフの妻が彼の帰りが遅いので騒ぎ出したあげく事件は発覚した。主犯はピョートルであった。ピョートルはすでにペテルブルグに逃げていた。
 ピョートルはスタヴローギンの指示のもと、秘密結社を組織していた。秘密結社とは無神論・共産主義思想を信条とする結社で、5人を1つのまとまりとした5人組をロシア全国に組織していた。ある時期がきたら5人組が全国で立ち上がり革命を起こすというものである。
 だが、実際には5人組は1つしかなく、組織の力をみせるべく、また組織の結束をはかるために、当局に密告をしたという嫌疑で5人組の1人であるシャートフを殺したのである。 スタヴローギンは直接には手をくだしていない。物語を通してスタヴローギンの行動は不可解である。おそらくスタヴローギンが組織を思想的に動かしていたものと思える。ただ、その思想がどのようなものかはよくわからない。スタヴローギンは革命家というよりも病んだ人間であった。
スタヴローギンはハンサムで金持ちである。学生のときから放蕩の限りを尽くしていた。シャートフの妻も彼の子を身ごもった。
 スタヴローギンの心には決して消え去ることのない記憶が残されていた。スタヴローギンはペテルブルグでの学生時代、愛人と過ごす場所として本来の下宿とは別の部屋を借りていた。彼はその部屋の家主の12歳の娘を陵辱したのである。娘はそれを苦に自殺した。 彼は悩み続け、最後は自殺をするのである。

 「悪霊」は悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込み溺れ死ぬという聖書の記述からヒントを得て書かれたものである。当初の「悪霊」の主題は豚に取り憑いた悪霊を無神論・共産主義と見立てたものであっただろうが、主題そのものが変わり、最後はスタヴローギンという新しい悪魔的な人間を描くことによって神と悪魔と人間の問題を追及したのではないかと思う。
 「悪霊」はとても深い小説である。何度読んでも新しい発見をすると江川先生は話してくれた。

フョードル・ドストエフスキー「虐げられた人びと」(ロシア)を読む

 近頃、子供の虐待のニュースが頻繁に流れる。子供の虐待は社会の反映なのだろうか。社会が逼塞しているとき、子供の虐待がよく行われるようだ。社会が大きく変化したり、混沌としたりしたとき、犠牲になるのはいつも弱者すなわち子供たちなのであろう。
 ドストエフスキーの作品の終生のテーマの1つは子供の虐待である。貧しい人たちのことを書いた小説はたくさんあるけれどもドストエフスキーほど貧しい子供たちの虐待を克明にそしてリアルに描いた作家を私は知らない。「カラマーゾフの兄弟」をあげるまでもなくドストエフスキーの作品には数々の子供の虐待が描かれている。
 イエス・キリストは<見よ、この子たちを。この子たちは未来の人類なり>といっている。ドストエフスキーにとって、子供たちを虐待することは未来を否定することであったに違いない。未来を否定することは人類が生きる意味をなくすことである。人類の未来を信じていたドストエフスキーにとっては子供の虐待は許さざるべきことであったに違いない。子供の虐待は人類の大きな罪であった。
 実際、ドストエフスキーの生きた時代は子供の虐待が頻繁に行われていたらしい。1861年の農奴解放令以後、ロシアは封建社会からブルジョア社会へと急激に変化をし、社会は混迷を極めた。貧しき人々は街に溢れた。このような状況のもと多くの子供たちが虐待されたのである。
 ドストエフスキーは子供の虐待のことを徹底的に調べたらしい。彼は子供の虐待を描くことで時代の不条理さを浮き彫りにしようとしたのかもしれない。子供の虐待は時代が病んでいる証拠である。

 ドストエフスキーの「虐げられた人びと」は子供の虐待がテーマの物語ともいえる。主人公はネリーという孤独な12歳の少女である。私は学生時代に「虐げられた人びと」を読んで以来、事あるごとにネリーのことを思い出した。不幸なそして可哀想な少女ネリーのことを私は永遠に胸に刻み続けるであろう。この作品は「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などの長編に見られる思想的・哲学的な深さはないかもしれないが、少女の不幸を深く描いているという意味においては、私には感動的な作品である。
 「虐げられた人びと」はワーニャと呼ばれる小説家の手記である。ワーニャは死の床についており、余命いくばくもない。彼は1年ほど前に起こった出来事を書いたのである。物語は「私」であるワーニャの語りで進められる。
 1年前、「私」はある喫茶店で老人が死ぬのに遭遇した。その老人はスミスといい、貧しく身寄りがなかった。彼といつも一緒にいた犬も死んだ。「私」はスミスに興味をもち、彼の住んでいたみすぼらしい部屋に住むことにした。「私」は誰かがスミスを訪ねてくるのではないかと期待した。あるとき、12歳くらいの少女が「私」の部屋に訪ねてきた。当然、スミスを訪ねてきたのである。「私」は事情をその少女に説明した。
 少女はネリーといった。ネリーはみるからに貧しい身なりをしていた。彼女は売春宿のおかみブブノワの小間使いをしていた。ネリーの母親がスミスの娘であった。母親はすでに死んでいた。
 10数年前、母親は父親のスミスを裏切り、スミスからお金を持ち出して、恋仲になった男とヨーロッパへと駆け落ちしたのである。その男はワルコフスキー公爵といい、悪魔的な人間であった。結局、身ごもった母親は公爵に捨てられ、ネリーを生んだ後しばらくしてスミスのいるペテルブルグに帰ってきた。生活力のない母親はスミスを頼ったが、スミスが頑として母親を許そうとしなかった。母親とネリーはブブノワの家の地下室に住み、物乞いをして生活した。そして母親はスミスに許されることなく肺病で死んでしまった。ネリー1人が残された。ネリーはそれでもしばしばスミスを訪ねていた。
 ネリーはブブノワから虐待されていた。売春もさせられた。ネリーの状況を理解した「私」はネリーをブブノワのもとから救い出し、一緒に住むようになった。ネリーは複雑な感情の持ち主であったが、「私」を愛するようになったが、最後は母親と一緒にいたたのしかった頃のことを思い出しながら死んでしまった。

 ネリーの短い生涯を思うと私はいつも胸が締め付けられる思いがする。

フョードル・ドストエフスキー「死の家の記録」(ロシア)を読む

 どんな凶悪な犯罪を犯した人間でも震え慄(おのの)く最悪な刑とは意味のない労働をさせることである。意味のないとは目的のないことと同義である。
 農奴の行うどんなに過酷な仕事にも何かを作りあげるという意味がある。ところが、砂山をこちらからあちらに移し、移し終えたらまたこちらに返すということを繰り返し行ったり、穴を掘り、また穴を埋めるということを繰り返すような仕事には意味がない。このような仕事をさせると人はかならず発狂するという。私はこの意味のない仕事の凶悪性をドストエフスキーの「死の家の記録」を読んで知った。
 ドストエフスキーは若いとき、社会主義に魅せられ社会主義革命運動に身を投じた。結果としてドストエフスキーは当局に逮捕された。最初は死刑の判決を受けたが、死刑の執行直前、皇帝の恩赦によって死を免れ、シベリア送りとなった。
 ドストエフスキーはシベリアの要塞監獄で4年間服役した。この4年間の監獄生活を土台にして書かれたのが「死の家の記録」である。「死の家の記録」は大作家への第一歩となった作品であるが、それ以上に実際の監獄生活がドストエフスキーを大作家にしたことが興味深い。
 ソ連時代の反体制作家ソルジェニッティンも収容所送りとなり、そこでの生活を書いた「イワン・デニソビッチの1日」は「死の家の記録」を強く意識して書かれたものであり、この作品でもってソルジェニッティンはノーベル文学賞を受賞している。
 よくドストエフスキーは異常な時代を過ごし、異常な体験をした作家といわれる。異常な時代とは封建社会からブルジョワ社会に移行しようとしていた時代のことであり、異常な体験とはシベリア送りをさすのはいうまでもない。おそらく監獄生活がなければドストエフスキーは世界文学の中には登場しなかったであろう。「死の家の記録」を読むとそのことがよくわかる。ドストエフスキーは監獄生活の中でいろいろなタイプの民衆を見たのであり、人間の性格の複雑さも垣間見たのである。監獄生活はドストエフスキーに作家として最も大事な人間観察眼を与えたのである。

 「死の家の記録」は妻殺しの罪で10年間監獄生活を送ったアレクサンドル・ペトローヴィッチの監獄生活を纏めた手記である。手記は監獄に入るときから出るときまでのことに言及している。
 監獄はペテルブルグから遠く離れたシベリアの町に存在していた。囚人たちは強制労働に従事し、それ以外はほとんど狭い部屋にたくさんの囚人とともに押し込められた。それでも彼らは精一杯に日一日と生活していた。
 囚人たちはロシア全土から集められた。ほとんどが凶悪犯で、人殺しや強盗などを働いたものであり、その他に政治犯がいた。人種も多様で、ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人・キルギス人・チェチェン人などがおり、農奴も貴族もいた。みな足枷をつけていた。 おもしろいのは監獄生活にはある程度自由があったことである。夜中に博打をやったり、酒を飲んだりした。
 それこそたくさんの囚人たちが登場する。何人もの人間を殺した凶悪な囚人も心やさしかったりする。監獄はさながら巨大な家であった。ただその家に死という冠がつくのである。
 「死の家の記録」がすばらしいのは語り手のアレクサンドルがフィルターを通して囚人たちを見ていないことであった。彼は囚人を見るとき、犯した罪でなくその囚人の人間性を見ていた。
 やはり感動的なのは刑期を終えて監獄を出るときである。アレクサンドルは次のように述べて手記を終えている。

<そうだ、さようなら! 自由、新しい生活、死よりの復活……なんというすばらしい瞬間であろう!>(新潮文庫 工藤精一郎訳)

 「罪と罰」のラスコーリニコフ、スヴィドリガイロフ、「白痴」のムイシュキン、「悪霊」のスタブローギン、「カラマーゾフの兄弟」のフョードル、ドミートリー、アリョーシャはドストエフスキーが監獄の中で見た囚人の中から生まれたのである。

 
作文道場フョードル・ドストエフスキー
1821-1881。ロシア生まれ。19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。1846年の処女作「貧しき人びと」が絶賛を受けるが、48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。出獄すると「死の家の記録」などで復帰。61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、「地下室の手記」を皮切りに「罪と罰」「白雉」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」などを残しました。(新潮文庫より引用)。
読書感想文・小論文の添削は作文道場へ
line decor
株式会社河野 株式会社河野 Net個人指導道場
Copyright © 2007-2010 KOHNO.Corp All Rights Reserved.