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読書感想文
 
エミリー・ブロンテ「嵐が丘」(イギリス)を読む

 男と女の恋愛形態はいろいろあるけれど、「嵐が丘」に見られる恋愛形態を形容するには、異常という言葉以外に適切な言葉は思い浮かばない。
 「嵐が丘」はエミリー・ブロンテによって1847年に発表された。そのとき、エミリーは29歳であった。エミリーは「ジェイン・エア」を書いたシャーロット・ブロンテの妹である。因みに、エミリーの妹も作家である。
 私は「嵐が丘」を読んだとき、その異常な世界に驚いたが、何よりもこの作品が29歳の若い女性に書かれたことに驚いた。エミリーは天才としかいいようがない。惜しいことに、エミリーは「嵐が丘」が出版された翌年に30歳で死んでいる。
 「嵐が丘」はエミリーの死後、大反響を巻き起こし、世界最高の恋愛小説として特に女性読者を魅了してきた。現在では、古典中の古典としていわれ、また、より現代的であるともいわれている。モームは「嵐が丘」を世界10大小説の1つに数えている。
 私が初めて「嵐が丘」を読んだときは、世界最高の恋愛小説としての実感はなかったが、何度となく読むうちに、作品の迫力に惹きつけられた。今回、再び読みなおすと、なぜかドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と重なった。それは2つの作品とも悪魔が大きなテーマであるからかもしれない。
 男と女が真剣に愛し合ったときには、道徳も規律も神の掟も存在しない。憎しみすらも愛情を昂ぶらせるものとなる。「嵐が丘」は愛する男と女の根源的な世界を描いた恋愛小説である。

 ヨークシャのある村に、嵐が丘という邸があった。この邸は由緒あるアーンショウ家が所有している。当主のアーンショウには兄のヒンドリーと妹のキャサリンという2人の子供がいた。
 アーンショウがリバプールに行ったとき、ヒースクリフという素性の全くわからない孤児を連れて家に戻ってきた。ヒースクリフはアーンショウの子供として育てられた。
 ヒースクリフはヒンドリーに嫌われたが、キャサリンとは仲良くなった。アーンショウが生きている間は、ヒースクリフはアーンショウの子供として待遇されたが、アーンショウが死んでからは、ヒースクリフは下男の立場に追いやられた。当主になったヒンドリーはヒースクリフを苛め抜いた。
 ヒースクリフとキャサリンは愛しあったが、キャサリンはリントン家のエドガーと結婚することになった。リントン家の邸は鶫(つぐみ)の辻といった。ヒースクリフはキャサリンがエドガーと結婚することを聞いて、嵐が丘を去った。
 3年後、ヒースクリフは金持になって帰ってきた。ヒースクリフはいろいろな手を使って、ヒンドリーに復讐し、嵐が丘の家を乗っ取った。また、ヒースクリフは平気でリントン家の鶫の辻の邸に出入りし、キャサリンと再び愛しあった。キャサリンの夫のエドガーはヒースクリフのことを蛇蝎のごとく嫌った。ヒースクリフはエドガーの妹イザベラと結婚した。しかし、イザベラは結婚するとすぐに、ヒースクリフのもとから逃げ出した。
 物語はヒースクリフを中心に、ヒンドリー、キャサリン、エドガー、イザベラとヒンドリーの息子のヘアトン、キャサリンとエドガーの娘キャサリン・リントン、イザベラとヒースクリフの息子リントン・ヒースクリフなどが絡み合って展開される。
 ヒンドリー、キャサリン、イザベラ、エドガー、リントン・ヒースクリフの順に死んでいき、アーンショウ家とリントン家のすべての財産を手に入れたヒースクリフも死んだ。その死に方は自殺のようであった。
 ヒースクリフは、死んだらキャサリン、エドガーの夫婦の隣に埋めろと遺言した。墓には、ヒースクリフ、エドガー、キャサリンの3つの棺が並んで埋められている。

 ヒースクリフは血も涙もない悪魔のような男であったが、キャサリンに対する愛情だけは決して失わなかった。

 
作文道場エミリー・ブロンティ
1818年 - 1848年。アイルランド出身の牧師の娘として、英ヨークシャーに生れる。姉シャーロット、妹アンの”ブロンテ姉妹"とともに、牧師館周囲の荒涼たる自然に親しみ、空想的な物語を作って楽しみながら成長した。エミリ唯一の作品である「嵐が丘」は、1847年、姉の「ジェーン・エア」の成功を機として。妹の「アグネス・グレイ」と同時に出版された。鋭い感受性と独立心に富んだ彼女の神秘的な心の世界を写している。<新潮文庫「嵐が丘」鴻巣友季子訳より引用>
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