数学道場、総合案内
line decor
 
line decor
はじめに
日本文学編に戻る
 
line decor
読書感想文
 
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン「スペードの女王」(ロシア)を読む

 「賭博者」という小説を書いたドストエフスキーはたいへん賭博が好きであった。彼は賭博で負けてかなりの借金を背負うことになり、バルザック同様借金を返済するためにたくさんの小説を書いた。「罪と罰」も借金返済のために書かれた小説の1つであるといわれている。
 「罪と罰」の主人公のラスコーリニコフには原型があるらしい。私はその原型はハムレットではないかと長らく思ってきたが、そうではなく、プーシキンの「スペードの女王」の主人公のゲルマンだとこの作品を読んで知った。なるほどゲルマンは幻想と現実の間を生きるという意味においてラスコーリニコフの原型かもしれない。
 プーシキンはロシアが生んだ国民的詩人であり、ロシア文学の頂点に立つ人である。ロシア文学はプーシキンから始まったといっても過言ではない。プーシキンなくして、ゴーゴリ・ドストエフスキー・トルストイも生まれかったに違いない。特にドストエフスキーは世界最高の芸術家として敬愛してやまなかった。また、プーシキンから多大な影響を受けている。ドストエフスキーの賭博好きもプーシキンの影響かなと勘ぐりたくなる。プーシキンも賭博に入れ込んだ時期があったからである。
 プーシキンは1799年に生まれ、1837年に没している。わずか38年の生涯である。死因は決闘である。妻に手を出した男に決闘を申し込んで、逆に殺されてしまった。決闘での死ということもプーシキンを神格化するのに一役買っているような気もする。
 プーシキンは帝政ロシアにあって自由を愛した人で、自由奔放な彼の詩は当局から目をつけられた。プーシキンは詩だけでなく小説も書いている。
 自由を愛するプーシキンは生き方も奔放で賭博にも手をだし、多額の借金を背負い込んだこともあった。そのときの体験が「スペードの女王」を生んだのである。

 「スペードの女王」の主人公はゲルマンという工兵士官である。名前が示すとおり、ゲルマンはドイツ系ロシア人である。ゲルマンは仲間がカルタ(トランプを使う賭博)に熱中しても自ら賭博に手をだすことはなかった。
 ところが堅物(かたぶつ)のゲルマンも友人のトムスキイが語った祖母の話を聞いてカルタに興味をもった。トムスキイの祖母は伯爵夫人で老齢であるがまだ健在であった。彼女はファラオン(2組のトランプを用いて行うルーレットのようなゲーム)で勝つ秘密の方法を知っていた。
 ゲルマンは伯爵夫人に会おうとしてまず夫人の侍女であるリザヴェータに近づいた。ゲルマンはリザヴェータに何度となく恋文を送り、彼女の心を掴んだ。リザヴェータはゲルマンに伯爵夫人のいない日時を教え、その時間に伯爵夫人の家の自分の部屋に来るよう伝えた。ゲルマンはうまく伯爵夫人の家に忍び込み、リザヴェータの部屋に向かったが、そこへ伯爵夫人が突然に家に帰ったきた。彼はうまくある部屋の隅にかくれた。その部屋は伯爵夫人の寝室であった。ゲルマンは寝ようとする伯爵夫人の前に進み出て、ファラオンに勝つ秘密の方法を尋ねた。伯爵夫人は杳として答えようとしなかったのでゲルマンは拳銃を取り出して脅そうとした。そのショックで伯爵夫人は死んでしまった。ゲルマンはその場をうまく逃げ出した。
 伯爵夫人の葬儀が終わったその夜、ゲルマンの夢の中に伯爵夫人が現れ、秘密の方法を教えてくれた。リザヴェータと結婚するなら私を殺した罪は許してくれるともいった。その秘密の方法とは「3」、「7」、「1」のカードに張れというものであった。
 ゲルマンは最高級の賭博場に出かけ、「3」に張って大勝し、翌日「7」に張ってまたもや大勝し、その翌日、「1」に有り金全部を張った。胴元が配ったカードは「1」で勝ったと思ったが、張ったカードは「1」ではなく「女王」であった。その女王はにやりと笑った。ゲルマンはすべてを失った。
 その後、ゲルマンは発狂した。

 「スペードの女王」は夢の中を彷徨っているような物語である。ぞくぞくするようなおもしろさでもある。ラスコーリニコフがゲルマンから生まれたと思うとなおさら興味が湧いてくる。

 
アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン「大尉の娘」(ロシア)を読む

 ロシア帝政時代、農民は苦しめられた。いつ農民の反乱が起こっても不思議ではない状況であった。
 ロシア帝政史上最も大きな反乱は1773年に起きたプガチョーフの反乱である。この反乱の首謀者はプガチョーフである。プガチョーフはコサックの貧農の出身で、自分をピョートル三世だと僭称し、農奴制から農民を解放すると触れまわった。最初は少数のコサックの兵士を以って反旗を翻したのであるが、反乱は瞬く間に広がり、反乱軍は分離派教徒・コサック・異民族などをその傘下におさめ、そして巨大化した。
 この反乱は2年間に亘って継続されたが、反乱軍の内部に問題が生じ、1775年政府軍によって鎮圧された。首領のプガチョーフはモスクワに送られ、そこで、四つ裂きの刑に処された。
 プガチョーフの反乱は長くロシア人の心に残った。プーシキンはロシア史にたいへん造詣が深かったが、特に、プガチョーフの反乱には興味を抱き、それを真剣に研究した。プーシキンはプガチョーフの反乱を題材にした歴史小説を書こうと思い立った。その結果、生まれたのが「大尉の娘」である。
 「大尉の娘」は歴史小説として書かれたのであるが、実際に出来上がってみると、それは歴史小説というよりは恋愛小説の色合いが強いものになっていた。そのため、出来栄えは優れたものになり、ロシア文学の最高傑作の1つに数えられるようになった。
 私は「大尉の娘」が大がつくほど好きである。読むたびに、心が温まる。農民の反乱という血腥(ちなまぐさ)い事件を扱っているが、プーシキンの人を見る目はやさしい。反乱の首領のプガチョーフにしても、非人間的には描いておらず、逆に、非常に人間味のある人として描いている。あまり他人の作品を褒めたことのない巨匠のトルストイも「大尉の娘」はべたぼめだった。

 「大尉の娘」はある一家のおじいさんが孫に書いた手記の形をとっている。おじいさんの一人称語りで、物語は進んでいく。
 おじいさんは貴族の子として生まれた。名前はピョートルである。ピョートルは貴族の息子らしく、自由気ままに育てられたのであるが、17歳になると軍隊に入れられた。
 ピョートルはベロゴールスク要塞に派遣されるのであるが、そこへ行く途中、猛吹雪に出会い、馬車は立ち往生した。真っ暗な平原でしかも猛吹雪の中で、死ぬかと思っていると、ある男が馬車の近くを通りかかり、ピョートルはその男に近くの宿まで送ってもらった。ピョートルはその男に感謝し謝礼をあげた。その男は謝礼をもらってたいそう喜んだ。この男こそ誰あろうプガチョーフであった。だが、ピョートルは知る由もなかった。
 ピョートルは、ペロゴールスク要塞の司令官である大尉そしてその妻に気に入られた。大尉夫婦にはマリアというかわいくて清楚な娘がいた。ピョートルとマリアは恋に落ち、結婚の約束をした。
 ところが、プガチョーフを首領とする反乱軍が要塞を攻めた。大尉夫妻は無残にも殺された。それからのピョートルとマリアはつらい目にあうが、プガチョーフとピョートルが偶然にも知り合いで、プガチョーフはピョートルにいい印象を持っていたから、プガチョーフはピョートルを自由にし、そしていろいろと便宜をはかってやった。
 プガチョーフの反乱軍は政府軍に制圧された。ピョートルは晴れてマリアと結婚できると思ったが、ピョートルはプガチョーフの反乱軍に加担した罪で、シベリア送りと決まった。
 マリアはピョートルの冤罪を晴らそうと、ペテルブルグに乗り込み、女帝に事の真相を訴えた。女帝はマリアのいうことを信じ、ピョートルを自由の身にした。
 ピョートルとマリアは結婚した。

 ロシア文学には1つの共通点がある。それはマリアという名の女性は質素で心のやさしい勇気のある女性であることだ。

 
作文道場アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン
1799年 - 1837年。西洋文学を貪欲に摂取し、自家楽籠中のものとして、近代ロシア文学の基礎をうち立てたロシアの国民詩人。簡潔明快な文章と構成で、現実と幻想の交錯を完璧に描いてみせた。「スペードの女王」5編の多彩な短編から成り、ロシア散文小説の出発点となった。「ベールキン物語」。<岩波文庫「スペードの女王」神西清訳>より引用。
読書感想文・小論文の添削は作文道場へ
line decor
株式会社河野 株式会社河野 Net個人指導道場
Copyright © 2007-2011 KOHNO.Corp All Rights Reserved.