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はじめに
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読書感想文
 
ジュール・ヴェルヌ「八十日間世界一周」(フランス)を読む

 現在では世界1周旅行は一般的であるが、19世紀も明治維新の頃になると、世界1周はごく限られた人間しかできなかったし、できたとしても命懸けであった。
 明治時代、日本から世界1周するとなると、まず、太平洋を横切ってアメリカに渡り、さらにアメリカを横断して大西洋に出て、大西洋を横切ってヨーロッパに入り、ヨーロッパからスエズ運河を通ってインド洋に出て、そしてインド・東南アジアを越えて、日本に帰ってくるというコースをとるのが普通であったろう。永井荷風はこのコースで世界を1周している。シベリア鉄道が開通すると、ユーラシア大陸をこの鉄道で横断するようにもなった。
 1869年にスエズ運河が開通すると、ヨーロッパでは、世界1周がかなり短期間でできるのではないかという期待が盛り上がった。この期待に応えて書かれたのがヴェルヌの「八十日間世界一周」である。この小説は冒険小説として書かれたものであり、胸湧き血踊るくらいおもしろい。
 日本人にとって、この小説がとりわけ興味深いのは、ロンドンからの世界1周のコースに横浜が入っていることである。時は1872年である。明治維新まもない横浜の町のようすが書かれている。確か「ガリヴァ旅行記」にも日本への旅行のことがでてくる。18・19世紀においても、日本は西洋にとってなくてはならない国であったのであろう。

 フォッグ氏はロンドンに住む紳士である。40歳ぐらいで独身である。フォッグ氏は金持ちであったので働かなくても贅沢な暮らしができた。毎日、決まったように革新クラブに通い、昼食と夕食をとり、会員たちとトランプに興じた。
 時は1872年で、スエズ運河が開通して間もない。あるとき、フォッグ氏がトランプをしている相手の1人がいくらスエズ運河ができても80日間で世界1周するのは無理だといった。それに対してフォッグ氏は可能だと主張した。結局、フォッグ氏はトランプ仲間と賭けをすることになった。2万ポンドを賭けた。フォッグ氏が所有するお金は4万ポンドであった。2万ポンドは貯金してあり、残りの2万ポンドが世界一周の旅費となった。
 賭けをした日の夜、召使いのフランス人のパスパルトゥーを連れて、世界1周の旅に出た。80日間で世界1周をしなければフォッグ氏は破産する。どんなことがあっても80日間でロンドンに帰ってこなければならなかった。
 世界1周のコースはロンドン・フランス・スエズ運河・ポンペイ・カルカッタ・シンガポール・ホンコン・横浜・サンフランシスコ・ニューヨーク・リバプール・ロンドンの順であった。交通手段は船と鉄道であった。
 折りしも、フォッグ氏がロンドンを出発する直前、ロンドンの銀行で、5万5千ポンド盗まれるという事件が起こった。犯人の人相書きが刑事たちに出回ったが、偶然にもその人相書きはフォッグ氏そっくりであった。刑事のフィックスはスエズ運河を渡るときからフォッグ氏を尾行した。フィックスは逮捕状がないので、フォッグ氏を逮捕できなかったのである。
 旅行は最初は予定通りいっていたが、インドに入ってから予定が狂い始めた。インドではジャングルの中で、死んだ夫と一緒に燃やされるサティ(殉死のようなもの)の儀式に遭遇し、今にも焼き殺されようとした若い夫人を助けた。彼女はイギリスで教育を受けた教養ある美人であった。アウダ夫人といった。
 フォッグ氏・パスパルトゥー・アウダ夫人・フィックスの4人はいろいろな障害にあいながらも、イギリスに戻ってきた。
 フォッグ氏がロンドンに着いたのは約束の時間より5分遅れていた。フォッグ氏は賭けに負けたはずであったが、実は賭けに勝ったのである。
 フォッグ氏は東回りに世界を一周したのであるが、日付変更線を超えても1日日付を後ろにずらさなかったのである。すなわち、フォッグ氏は79日間で世界1周したのである。

 現代では飛行機で日付変更線を越えるとき、アナウンスで日付を1日ずらしてくださいといってくれるから、フォッグ氏のような間違いはしないはずである。それにしても見事な落ちであった。

 
ジュール・ヴェルヌ「十五少年漂流記」(フランス)を読む

 無人島に漂着して、その島での生活を余儀なくされる小説で代表的なものは「ロビンソン漂流記」であるが、日本でそれに負けず劣らず有名なのが、ヴェルヌの「十五少年漂流記」である。
 ヴェルヌは冒険小説の大家であり、生涯に60作余りの小説を書いているが、少年向きに書かれたのは「十五少年漂流記」ただ1つであるらしい。とはいっても、この作品は大人が読んでも充分に楽しめるし、私は大人になってから何度となく読んだ。
 「十五少年漂流記」は「ロビンソン漂流記」を強く意識されて書かれたものであるが、構成はまったく違う。「ロビンソン漂流記」は無人島で1人で生活するのだが、「十五少年漂流記」はタイトル通り15人で共同生活をするものである。ロビンソンは王様のように自由に振舞えたが、15人もいると、そこには対立もあり、規律・規則というものが必要になってくる。15人といえども1つの国を運営するようなものだ。彼らは1つの共和国を作ったのである。
 「十五少年漂流記」は1888年に書かれているが、そのときのフランスは完全なる共和国になっていた。ヴェルヌがこの作品を書いた1つの動機が、共和国のすばらしさを伝えたかったのではなかろうかと私は思ってしまった。
 「十五少年漂流記」は痛快で心温まる冒険小説である。

 1860年の夏、南太平洋上で、スクーナーのスルギ号は大嵐の中を飛ぶように走っていた。スルギ号はニュージーランドの港から漂流し、風の吹くままに走っていたのである。
 スルギ号には8歳から13歳までの少年が15人乗っていた。黒人のモーコーを除いて、彼らはすべてチェアマン学校の生徒である。夏休みを利用して、ニュージーランド1周の旅に出ようとした矢先に災難にあったのである。
 船は無人島に漂着した。その島はよほど南極に近いらしく、冬には氷点下30度まで下がった。15人は共同生活を開始した。まず住む場所を探し、適当な洞穴を見つけ、そこを住居にした。
 彼らはいろいろと決まりを作ったが、まず最初に、大統領を決めた。初代の大統領はゴードンに決まった。14人は大統領の指示には従わなければならなかった。
 大統領のゴードンとモーコーを除いて、13人は大きく2つのグループに分かれた。ドノバンを中心とするグループとブリアンを中心とするグループである。ドノバンはイギリス人で学校の成績がよかった。ブリアンはフランス人で成績はよくなかったが、勇気がありやさしかったので、年下の少年たちに絶大な人気があった。2人とも13歳であった。ゴードンもモーコーもブリアンが好きであった。
 ドノバンはブリアンの人気を妬み、勝手に行動することが多かった。ドノバンはブリアンを見下していたのである。
 あるとき、ドノバンのグループは家出をしたが、ドノバンは森の中で、ジャガーに殺されそうになった。運よく、ドノバンを探しに来たブリアンが見つけ、ブリアンは間一髪、ジャガーを殺した。ドノバンは心の底からブリアンの勇気に感謝し、以来、ドノバンはブリアンを敬愛の念を持って接した。
 いろいろな出来事が起こったが、15人の少年たちは力を合わせて危機に立ち向かった。約2年間島にいて、15人最後は17人になっていたのだが、彼らは無事にニュージーランドに戻った。
 「十五少年漂流記」でヴェルヌが何をいいたかったのかは、次のヴェルヌ自身の言葉でよくわかる。
 <もちろん、今後、いかなる小中学生も、このような夏休みを送ることはあり得ない。だが、なんであれ困難に直面した時に、勤勉、勇気、思慮、熱心の四つがあれば、少年たちでも、必ずそれに打ち勝つことができるということだ。>

 「十五少年漂流記」は大人にもぜひとも読んでほしい小説である。

作文道場ジュール・ヴェルヌ
1828年、フランス、ナントのフェイド島生まれ、ナントのリセを出たあと、法律の勉強のため訪れたパリでアレクサンドル・デュマ父子と出会い、劇作家を志す。ナダールが製作した気球に触発されて、1863年に刊行した冒険小説「気球旅行の五週間」が大評判となり流行作家となる。H・G・ヴェルズとともにSFの開祖として知られる。1905年没。<角川文庫「八十日間世界一周」江口清一訳>より引用。
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