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読書感想文
 
樋口一葉「たけくらべ」を読む

菊坂 樋口一葉が生きていたのは明治5(1872)年から明治29(1896)年までで、わずか24年である。なんとも言い難い。思わず天を仰ぐといった感じか。とにかく一葉の才能が偲ばれる。

 実に久しぶりに「たけくらべ」を読み返した。初めて読んだときは正直言ってわからなかった。「たけくらべ」は近代小説とはいわれているが、その文体はほとんど文語体であるといってもいいくらいだ。なにせそのとき、私は20歳そこそこで、吉原という遊廓のことだけではなく男と女の微妙な恋愛感情も読みとることができなかった。
 しかし、今回読んでみて感動した。脱帽したといってもいい。文語の特長を生かしたリズミカルな文体を用いて、子供から大人になろうという思春期の男女の世界やそれを取り囲む大人の世界を、吉原界隈という狭い空間に凝縮させて見事に描いている。その空間で喜びも哀しみも苦しさもつまっている「人生」という修羅場が演じられる。そこで、蠢(うごめ)く人間たちの心情をこれほどリアルに描くとは、はたして本当に24歳の女性がこの「たけくらべ」を書いたのか。

 森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨(りょくう)がある文芸雑誌で「たけくらべ」を激賞したのもむべなるかなである。最高傑作といってよい。やはり一葉は五千円札の表紙にその肖像画がのるべき人なのだ。
 考えてみれば不思議なものである。あれだけお金に苦しんだ一葉が五千円札の表紙を飾るなんて。伊藤整の『日本文壇史』には一葉はしばしば顔を出す。そのほとんどは彼女がお金に苦しんで借金を申し込む場面ばかりである。半井桃水(なからいとうすい)との淡い恋物語も描かれてはいるが。

 私は一葉はお金に苦しむために生まれてきたような女性かと思っていた。借金は辛い。借金の辛さは借金をしたことのない人にはわからないだろう。お金は貸すより、借りることのほうがはるかに辛いのである。一葉はこの辛さを16歳の頃から死ぬまで味わうのである。だが一葉には借金で苦しんでいるというじめじめしたイメージはない。毅然と事にあたっているという感じである。
 一葉は武士道を身につけた女性だ。いろいろと憶測されているが、私は一葉がお金のために身を売ったことはないと思っている。だからといって、一葉は遊廓で働く遊女たちをつゆとも軽蔑はしていない。それは生きるためにやむにやまれずやっているのであって、いやしい商売であるとは見ていなかった。ただ、遊女というものを哀しい存在としては見ている。

 「たけくらべ」の女主人公美登利は美人で賢くてもやはり遊女になる宿命を背負っている。いくら信如に恋しても添い遂げられないのである。「たけくらべ」は成就されない恋の物語といえなくもない。
 男の子と女の子の微妙な心情をつづっただけでは「たけくらべ」は多くの人からこれほど口を極めて褒め称えられないであろう。遊女になる女の子を主人公にしているとはいえ、「たけくらべ」のベースになっているのはやはり王朝文学といわれているものだ。

 「たけくらべ」という名前自体が「伊勢物語」の筒井筒(つついづつ)からとられている。私は「伊勢物語」はそれこそ何度も読み、その中で一番印象深かったのが筒井筒である。男と女の関係をこれほど哀愁深く簡潔に描ききったものはそうざらにない。 「伊勢物語」だけではない。「枕草子」「源氏物語」「徒然草」「竹取物語」などもベースになっている。「たけくらべ」は日本の伝統と美と哀しさを吉原という非常に現実的な場に蘇らせたといってもよい。

 <廻(まわ)れば大門(おおもん)の見返(みかえ)り柳(やなぎ)いと長(なが)けれど、・・・>という書き出しに、見返り柳というあまりにも痛切な現実を見せながら、これから王朝物語が始まるなと予感させる。何回読んでも感服の至りの出だしである。
 やはり、一葉は超一流の教養人なのである。こんどは誰に借金をたのもうかと思案しながら、物語・和歌を一生懸命勉強したのであろう。美登利の境遇にしても、彼女は小遣いをたくさんもらって裕福な暮らしをしているが、それも形を変えた借金のようなものである。それを彼女は姉のおかげと思っているが、やはり世の中は甘くないのである。
 「たけくらべ」のクライマックスは美登利が水揚げされた直後である。彼女は劇的に少女から女へと変身する。そして、それまでなじんできた友だちと遊ばなくなる。彼女は一足速く「たけ」が伸びたのである。少女から女へ、それは超現実的な大人の世界にはいっていくことである。他の子供たちも遅かれ早かれ彼女の後を追って大人の世界へと入っていくのである。
 美登利が大人の世界の入口に立ったある日、誰かが彼女の家の門から、水仙の造花を差し入れた。それは初恋の人信如のものからであった。この終わり方も本当に素晴らしい。大人の世界に入ったとはいえ、やはり初恋の淡い気持ちは心の奥の隅に永遠に残っていくのである。

 樋口一葉はまさに「後生畏るべし」を地でいった人であった。だが、私たちは25歳を過ぎた一葉を知ることはできない。それはそれで仕方がない。24年という短い生涯で、日本人の心の中に永遠に残る不朽の名作を彼女は書いたのだから。

(写真:東京文京区本郷。菊坂から一葉を思い出される人も多いと思います。)
「寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな」

※:写真は、菊坂にある樋口一葉が使用した井戸です。

一葉ゆかりの伊勢屋質店の案内板

※:写真は、一葉ゆかりの伊勢屋質店の案内板です。

樋口一葉ゆかりの桜木の宿の案内板

※:写真は、樋口一葉ゆかりの桜木の宿の案内板です。

萩の舎跡

※:写真は、牛天神前に建っている萩の舎跡の案内図

吉原神社

※:写真は、台東区にある吉原神社です。

吉原の案内板

※:写真は、吉原の案内板です。

文京区にある樋口一葉終焉の地の石碑

※:写真は、文京区にある樋口一葉終焉の地の石碑です。

 
作文道場樋口 一葉(ひぐち いちよう)
1872年5月2日(明治5年3月25日) - 1896年11月23日(明治29年))。
小説家。東京生れ。
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