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読書感想文
 
石光真人編著「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」を読む

 1902年に日英同盟が締結された。この同盟には世界がいささか驚いた。英国という大国がアジアの小国日本と同盟したからだ。
 英国が日本と同盟を結ぶにあたって、英国が日本の軍隊に好印象をもっていたことが一役買ったと言われている。明治33(1900)年、中国で義和団事件(北清事変)が起こる。自国民を守るために欧米列強は中国に軍隊を派遣した。日本も軍隊を派遣した。そのとき、列強の軍隊は規律がなく、一般市民に対して略奪などをした。逆に日本の軍隊は規律正しかった。日本の軍隊は世界から賞賛された。このとき、日本の軍隊を指揮していたのが柴五郎中佐であった。
 柴は陸軍の幼年学校から軍事教育を受けた陸軍のエリートで大将まで上り詰めた人である。ある意味、柴の人生は成功の人生であった。だが、柴の幼少期から少年期は悲惨極まりないものであった。

 柴は会津藩士の息子として1859年に会津若松で生まれた。太平の時代なら幸せな子供時代を送ったはずである。時あたかも幕末の動乱が始まっていた。尊王攘夷が狂気のように叫ばれていた。
 1867年、将軍慶喜は大政を奉還した。それにもかかわらず薩長を中心とする官軍は朝敵として幕府そして佐幕派を撃とうとした。戊辰戦争である。佐幕派の筆頭である会津藩は官軍から一番の標的とされた。いよいよ官軍は会津藩に攻め入った。会津藩は女子供まで総出で応戦したが多勢に無勢、なすことなく鶴ヶ城(会津若松城)は陥落した。
 少年であった柴は難を逃れたが、彼の祖母・母・姉・妹は自害した。父親と兄たちが残された。
 薩長閥を中心とする明治政府は会津藩を下北半島の斗南(となみ)に移封した。いわゆる斗南藩である。斗南藩は30000石と言われたが実際には7000石ぐらいであった。66万石の会津藩とは雲泥の差であった。藩士全員は当然生活ができるはずがなかった。
 柴少年は父親と一緒に斗南に行った。そこで約2年間暮らした。そこでの暮らしは想像を絶するものであった。真冬になると氷点下15度ぐらいになり、柴少年は裸足で外を歩かなければならなかった。
 柴は寡黙な人で生前自分の半生をあまり語ることはなかったが、晩年、幼少年時代についての文章を遺書のつもりで書いている。この文章を本にしたのが石光真人編著「ある明治人の記録」(中公新書)である。
  私はこの本を読んで驚きそして近代史について深く考えさせられた。はっきり言って、会津藩を斗南に行かせたのは移封ではなく、処罰である。薩長閥は会津藩を朝敵として見せしめにしたとしか思えない。はたして会津藩は朝敵であったのだろうか。それ以上に本当に薩長は尊王であったのか。特に長州の動きをみていると尊王だとはとても思えない。薩長は天皇を思い切り利用し、自らの行動を正当化したのではなかろうか。政治とはそのようなものであろう。ただ薩長のやり方、とくに軍隊を私物化したことが日本を滅亡に追い込んだのは確かであろう。結局、戦前は薩長対反薩長の構図で国が動いていたのではなかったか。その構図を作ったのはもちろん薩長である。

 私たちは本当の歴史を知らなければならない。そのためにはいい史料にあたることである。偏った見方をする歴史学者の本を読んでも歴史は決してわからない。
 「ある明治人の記録」は一級資料である。

作文道場石光真人(いしみつまさと)。
1904(明治37)年東京生まれ。1930(昭和5)年早稲田大学文学部哲学科卒業、同7年、東京日日新聞(毎日新聞)編集局勤務。昭和17年以降、日本新聞会、同連盟、同協会勤務を経て、1963年よりABC協会専務理事、1975年逝去。(「ある明治人の記録」から引用)
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