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読書感想文
 
三浦綾子「矢島楫子伝 われ弱ければ」を読む

 福沢諭吉・新島襄・新渡戸稲造などの例をだすまでもなく、いい教育をするには教育者自身が優れていなければならない。教育の問題とは生徒やシステムの問題ではなく、ひとえに教育者の問題である。
 まず教育の目標とは何だろうと私は真剣に思う。やはり教育とは自立できる力を養うことにあるのではないかと思う。別の言葉でいうと、自分の力でもって物事を判断できるようにさせるということである。
 長い人生を生きていく上において、解決しなければならない問題は常に存在する。だが、その問題にはあらかじめ用意された解答はない。解答は自ら考え出さなければならないのである。この力を身に付けさせるのが教育の目標であろう。
 現在の日本は豊かである。ほぼ全員が中等教育(中学・高校の教育)を受け、中等教育を終えた人の半数以上が高等教育(大学以上の教育)を受ける。教育機関・教育環境は充実している。日本は教育大国といえる。ところが、その教育は本当の教育といえるのであろうか。
 中等教育において教育の優劣はどれだけ生徒を一流といわれている大学に入学させるかで決まる。そのため名門校といわれている学校は効率よく入試問題を解く力を養成することを教育の目的にする。
 はたして試験問題が効率よく解けるようになったからといって、人生においての難問を解くことができるようになるのであろうか。
 なぜこんな教育がまかり通っているのであろうか。それは一流大学に行けば、大企業に就職できて生活が安定するからという論理がたくさんの日本人の頭を支配しているからである。その結果、大学生は中小企業に目を向けない。大企業には定員があるから、就職できない大学生が溢れることになる。なぜ大学生は中小企業に行かないのであろうか。自らの力で人生を切り開いていこうとする気概をもてば企業の名前などにこだわらないはずだ。本当に優れている人ならば会社を起こしてもよいのではないか。
 安定した生活を求めて、大企業の社員や公務員になることをほとんどの大学生が望むというのは裏を返せば、日本の教育が貧困であるということである。センター試験で高得点を取ることといい教育を受けたということとは同値ではないのである。

 三浦綾子著「矢嶋楫子伝 われ弱ければ」は感動的な本である。私はこの本を読んで深く教育とはどうあるべきかを考えさせられた。この本は女子学院の初代院長であった敬虔なるキリスト教信者でもあった矢嶋楫子の波乱万丈の人生を綴った本である。三浦綾子も敬虔なるキリスト教信者であり、また小学校の先生でもあった。三浦は心底矢嶋楫子の生き方に共鳴している。三浦は矢嶋楫子に対する思いを熱く語っている。
 矢嶋楫子は1833年に熊本の庄屋の第六女として生まれた。楫子の2番目の姉は横井小楠に嫁ぎ、3番目の姉は徳富家に嫁いで、蘇峰・蘆花の兄弟を生んだ。
 名門の庄屋の家に生まれたといっても楫子の半生は不幸なものであった。しかし、勤勉さとやさしさをもった楫子は明治という新しい時代に自らの運命を切り開いていった。楫子は日本矯風会の会頭としてもその名を歴史に刻まれている。私は教育者の楫子にたいへん興味をもった。
 楫子は初代の女子学院の院長になった。女子学院には校則がなかった。物事の善悪は自ら考えるというのが楫子の教育理念であった。善悪の判断基準は聖書であった。また、試験のときも教師は試験の監督をしなかった。生徒はカンニングをしようとすればできたのである。楫子の教え子の1人が楫子の教育方針について次のように語っている。

<矢嶋先生の教育方針は、今から考えると、一世紀近くも進んでいました。先生は画一教育に対して勇敢に横車を押し、個性を伸ばすということに教育の中心をおかれました>

 教育者の楫子はいつも生徒の将来を見据えて教育を施していたのである。私は教育者はすばらしい人格をもたなければならないと思った。
  「矢嶋楫子伝 われ弱ければ」をぜひとも教育者と呼ばれている人に読んでほしい。

築地にある女子学院発祥の地の石碑

※:写真は、築地にある女子学院発祥の地の石碑です。

女子学院の校舎

※:写真は、番町にある現在の女子学院の校舎です。

明治女学校跡の案内

※:写真は、番町の女子学院の傍にある明治女学校跡の案内です。

三浦綾子「塩狩峠」を読む

 明治になって、それまで禁教であったキリスト教を信仰することが可能になった。俄かにキリスト教を信じる人が増えてきたのであるが、彼らは世間の偏見の目にさらされた。キリスト教徒はヤソと蔑まされ、それこそ穢多(えた)・非人のような扱いを受けた。
 現代ではキリスト教を信じることに日本人の誰もが違和感を覚えることはない。まして、キリスト教徒だからといって特別な目で見られることもない。
 キリスト教が日本に深く根付くには、多くのキリスト教徒たちが苦難の道を歩んできた。彼らの行動が日本人をして、キリスト教とはすばらしいものだと認識させたのである。 新島襄・内村鑑三などのキリスト教徒たちをあげるまでもなく、彼らは悲惨な目に会いながらキリスト教の普及に努めた。
 キリスト教徒たちの行動原理は愛である。愛というのは抽象的であるが、具体的にいうと、見返りのない行為または犠牲といったものである。
 新島・内村ほど有名ではないが、人々の心に深く刻まれたイエス・キリストみたいなキリスト教徒も少なからぬいた。北海道の旭川にいた長野政雄もその1人である。
 三浦綾子の「塩狩峠」の主人公永野信夫は長野をモデルにしている。三浦も敬虔なキリスト教徒で、旭川六条教会で長野のことを知ると、深く感動した。この感動が三浦に「塩狩峠」を書かせたのである。

 永野信夫は明治10年に士族の子として生まれた。信夫には母がいなかった。信夫を生むとすぐに死んでしまったと教えられた。信夫は祖母に育てられた。武士の伝統を背負った祖母はきびしく信夫を躾けた。信夫の母は死んだのではなかった。母はキリスト教徒で、祖母がこれをひどく嫌い、無理やり母を家から追い出したのである。
 信夫が小学生のとき、祖母が死に、信夫は実の母と一緒に暮らすようになった。母は信夫の妹も連れてきた。妹もキリスト教徒で、父もキリスト教徒になった。母は美しくやさしい人であったが、信夫は家にいるとどこか居場所がないような窮屈な気がした。信夫はキリスト教には興味がなかった。信夫が中学を終えようとしたとき父が死に、信夫は大学進学をあきらめ、裁判所の事務員になった。
 信夫には吉川という無二の親友がいた。吉川とは小学校以来の付き合いである。吉川にはふじ子という妹がいたが、ふじ子は不具で、足が悪かった。信夫はふじ子に好感をもった。吉川と仲良くなって、間もないうちに吉川の一家は北海道に夜逃げした。
 信夫は裁判所を辞めて札幌に行き、吉川と同じ鉄道会社に勤務した。ふじ子は結核になり寝たきりの状態になったが、信夫は頻繁に吉川の家に行き、ふじ子を見舞った。2人は深く愛するようになった。ふじ子もキリスト教徒で、信夫もいつしかキリスト教徒になっていた。翌日がいよいよふじ子との結納という日、信夫は名寄にいて、旭川を経て札幌に向かおうとしていた。その途中、悲劇は起こった。
 塩狩峠を登っていた列車の最後尾の客車の連結が切れて、客車が加速度をもって下方に動き始めた。信夫はその客車に乗っており、他の乗客は恐怖に慄(おのの)いた。
 信夫は瞬間、神に祈り、客車のデッキに出て、ハンドブレーキに手をかけた。だが、列車は止まらなかった。信夫は意を決して、客車の前方の線路に飛び降り、体を張って客車を止めようとした。客車は信夫を下敷きにしたが、無事に止まった。
 鮮血が飛び散っていた。信夫は血まみれになって死んでいた。

 「塩狩峠」の最初に、次のような聖書の言葉が載っている。
  一粒(ひとつぶ)の麦、
  地に落ちて死なずば、
  唯(ただ)一つにて在(あ)らん、
  もし死なば、
  多くの果(み)を結ぶべし。(新約聖書 ヨハネ伝 第一二章 二四節)

 信夫はまさに死をもって、多くの実を結んだのである。

 
作文道場三浦綾子(みうらあやこ)。
1922年、北海道旭川市生まれ。13年間の療養生活中に洗礼を受け59年に結婚。64年、朝日新聞の懸賞小説「氷点」で入選し作家生活に入る。キリスト者のまなざしで「愛とは何か」を問い続けている。
(小学館文庫「われ弱ければ」より引用。)
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