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読書感想文
 
武者小路実篤「愛と死」を読む

 伊藤左千夫の「野菊の墓」は哀しい愛の物語で読むものの胸を打つ。「野菊の墓」に劣らず私の胸を打った哀しい愛の物語が武者小路実篤の「愛と死」である。この作品をはじめて読んだときの衝撃は今でも忘れない。世の中の不条理を私は嘆いた。だが、この作品は私の心に終生残る作品となった。
 武者小路実篤といえばすぐにトルストイが思い浮かぶ。日本の多くの作家がトルストイから影響を受けたが、武者小路ほどトルストイに心酔した作家がはたしていたであろうか。武者小路はトルストイの唱える博愛主義・理想主義を実際に実践した人だ。それが<新しき村>である。同志15人とともに武者小路は宮崎県の<新しき村>で理想の生活を営むのである。
 また、武者小路は白樺派の中心的人物でもあった。「白樺」はおもに学習院に通う文学青年たちによってなされた文芸雑誌である。武者小路の他、志賀直哉・里見ク・有島武郎・有島生馬などが作品を発表した。白樺派の運動は文学史でも燦然と輝いている。
 私は若い頃は何となく白樺派の作家たちの作品は避けていた。それは彼らが貴族の子弟たちであったからだ。金持ちのぼんぼんに何が文学がわかるかという気負った思いがあった。武者小路は子爵の息子である。とはいいながら、私は有島武郎・志賀直哉の作品を読むうちにそれらの作品に魅せられ、その流れの中で武者小路の「愛と死」を読むようになったのである。この作品は昭和14年武者小路が54歳のときに書かれたものである。

 「愛と死」は50歳近い作家と思しき男が21年前の恋人の思い出を綴った物語である。男の名は村岡といい、恋人の名は夏子といった。
 夏子は村岡が私淑している作家の野々村の妹である。野々村は若くして文壇にデビューし、30歳を少し超えていたがすでに大家であった。村岡がはじめて夏子に野々村の家で会ったとき、夏子はまだ17,8歳の女学生であった。
 20代半ばの村岡も小説を書いていたが、評判は芳しくなかった。だが、野々村は村岡の作品を評価した。それ以上に村岡の才能を認めていたのである。そして兄の影響か、妹の夏子も村岡の作品を評価していた。
 夏子は可愛いらしく、そして活発な子であった。女学生にはめずらしく宙返りができた。この宙返りが縁になって村岡と夏子は急速に親しくなった。2人の仲は将来を約束するまでになった。
 村岡にはパリに住む伯父がいた。伯父から将来のために西洋を見る必要を説かれ、村岡はパリへと半年の旅に出る。帰国後、2人は結婚することに決めた。
 パリに行ってから、物語はパリにいる村岡と日本にいる夏子との往復書簡の紹介で埋められている。どの手紙も1日も早く会いたい、愛しているということばが並んだ。
 村岡は予定通り日本に帰ることになった。2人の気持は最高潮に達した。まもなく2人は夫婦となり、これから永遠に一緒にいられるのである。
 帰国の船があと2,3日でホンコンに着くという日、村岡は日本からの電報を受け取った。それは野々村からのもので、夏子の死を伝えていた。
 その後の村岡の絶望は計り知れないものがあった。

 愛するものの死、ましてそれが若いものの死であるならなおさら哀しいものである。武者小路は「愛と死」の執筆中、夏子の死の場面を書くとき涙を流したという。
 「愛と死」は美しくもひたすら哀しい小説である。

調布 武者小路実篤記念館

※:写真は、調布にある武者小路実篤記念館です。

武者小路実篤記念館の庭園

※:写真は、武者小路実篤記念館の庭園です。

武者小路実篤記念館に建っている実篤像です。

※:写真は、武者小路実篤記念館に建っている実篤像です。

武者小路実篤記念館にある旧住居

※:写真は、武者小路実篤記念館にある旧住居です。

 
作文道場武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ)。1885年- 1976年。
東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に公卿の家系である武者小路家に子爵・武者小路実世の第8子として生まれたました。 学習院初等科、中等学科、高等学科、東京帝国大学哲学科に入学。
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