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読書感想文
 
夏目漱石「硝子戸の中(がらすどのうち)」を読む

 夏目漱石はイギリス留学から帰国すると本郷区(現文京区)駒込千駄木町に家を構えた。この家には明治36年3月から同39年12月まで住んだ。この家から第一高等学校、東京帝国大学へと通い、傍ら小説を書き始めた。「吾輩は猫である」が書かれたのはこの家である。そのためこの家は猫の家ともいわれる。この猫の家は現在愛知県の明治村に保存されているらしい。
 大学の先生をやめて朝日新聞に小説記者として入社した漱石は千駄木の猫の家から牛込区(現新宿区)早稲田南町の家に移る。この家は漱石山房といわれる。ここが漱石の終(つい)の棲家(すみか)となる。漱石山房は現在の早稲田大学文学部の近くにあった。
 漱石山房における漱石の書斎の三方の壁にはガラス窓がはめられていた。そのため書斎にいる漱石はさしずめ硝子戸のうちにいるようなものであった。
 漱石の「硝子戸の中」は小説ではなく随筆である。大正4年1月13日から同年2月23日まで「朝日新聞」に連載されたものである。漱石は大正5年12月に死んでいるから死の約2年前に書かれたものである。また、漱石はこの随筆が書かれるまで胃の病気で何度か入院をし、死の淵をさまよっていたこともある。「硝子戸の中」執筆時は病気が治ったというのではなく、小康状態にあったといったほうが正確かもしれない。
 「硝子戸の中」で漱石は自分の心境を淡々と語っている。

 「硝子戸の中」は全部で39編からなっている。1編は新聞1日分だからいたって短い。随筆だからいろいろなことに言及しているが、内容に関しては前半と後半では大きく違っている。前半では現在の身辺に起こったことが話題の中心であり、後半は小さい頃の回想が中心となる。前半と後半を通してちらつくのが「死」の影である。だからといって死に対する哲学的な考究をしているわけでなく、また、じめじめと暗いものにもなっていない。逆に、漱石は死を意識しながら生を肯定しているのである。
 ある女が漱石を漱石山房に訪ねてくる。女は漱石に自分の経験を小説に書いてほしいと頼みにきたのである。漱石は彼女の話を聞いた。彼女は壮絶な体験をしてきて、現在でもせっぱ詰まっているのがわかった。女の真意はこれから生きるべきか、死ぬべきかを漱石に教えてほしかったのである。すべてを諒解した漱石は女と会った最後の日、彼女を送って外にでた。歩きながら、女が「先生に送って頂くのは光栄で御座います」といった。そのとき漱石は「そんなら死なずに生きてらっしゃい」とさりげなくいった。
 私はこの話に漱石のなんともいえない温かみを感じた。

 後半では漱石は幼い頃の思い出、特に両親のことを書いている。私は前半よりも後半のほうにより興味をそそられた。特に印象の残ったのは、祖父母と思っていた2人が実は実の両親だと気がついたときのことである。
  漱石は末っ子で両親がかなりな年齢になってからの子であった。そのためか生まれ落ちるとすぐに里子にだされる。だが、すぐに実家にもどされ今度は養子に出される。その養子先に漱石少年が10歳のときごたごたが起き、漱石少年は再び実家へもどされる。漱石少年は実家にいる老いた男と女を祖父母と思っていた。あるとき、下女の1人が夜、あの2人はあなたの実の親なのですよとこっそり教えてくれた。漱石少年はたいへんうれしく感じた。その下女に感謝したいくらいであった。
 後半には両親以外の身内のことや、実家の周りの土地のことやそこに住んでいる人、並びに友達のことなどが書かれている。どの記述にもどこか江戸を引きずっている。やはり漱石の心の原風景が江戸であることが理解される。

 「硝子戸の中」には、漱石の小説に見られるような人生的葛藤は見られない。飾りのない文章が際立っている。愁いを帯びた孤独な教養人の文章である。
 私は「硝子戸の中」の文章がたいへん好きである。と同時にこの作品を読むといつもあるなつかしさを感じる。
 私の母もすでに他界している。今回「硝子戸の中」を読み返すと、その夜、夢の中に亡き母がでてきた。

 
 
夏目漱石「門(もん)」を読む

 漱石の「門」は「それから」の次に書かれた作品である。「三四郎」「それから」「門」の3部作のとうびを飾る作品でもある。
 「それから」は三四郎のそれからを扱った作品で、「門」は「それから」の代助のそれからを扱ったものといわれている。もちろん漱石もそう意識して書いたのであろう。
 「それから」は主人公の代助が友人の妻を奪って狂気状態になり、街にでて仕事を探すところで終わる。代助のそれからはどうなるのだろうかと、朝日新聞で「それから」を読んでいた読者は自然とそう思ったに違いない。

 「門」は「三四郎」に見られるユーモア、「それから」に見られる若々しさはない。はっきりいって暗い小説である。
 私が「門」を最初に読んだのは大学生のときで、読むのがたいへんつらかったのを覚えている。それまで読んでいた「坊ぅちゃん」「吾輩は猫である」「三四郎」とは趣がまるで違う。灰色の世界を覗(のぞ)いているようだった。読み終わるのにたいへん苦労した。
 ところが鴎外の作品と同じで、暗いといわれている漱石の小説もこちらが年齢を重ねるうちにたいへん味わい深いものとなっていく。40歳を過ぎて読んだとき、「門」から生きるということの根源的なものを教わった気がした。

 「門」の主人公は野中宗助である。宗助は裕福な家庭の長男として生まれ、何不自由のない身で育った。大学は京都帝国大学に進んだ。大学で最も親しい友人は安井であった。安井は一軒家を構え、同居している妹を宗助に紹介した。妹というのは嘘で、安井の妻になる人であった。名を御米といった。
 宗助と御米は恋に落ち、2人は逃げるように京都を去った。当然宗助は大学をやめた。宗助は地方を経巡って、あるところで偶然大学時代の友人に出会い、彼の斡旋で東京の役所に勤めることができた。
 代助と御米は東京の街の片隅で人を避けるように生活している。2人には子供がなかった。御米は3人の子を身ごもるがいずれもこの世で生を享受することができなかった。これを御米は天罰だと思っていた。
 過去のことは2人の間では話題にのぼらなかった。2人は仲がよかった。宗助が声を荒げたことは一度もない。傍目には幸せそうな家庭であった。大きな事件も起こらない。ただ気がかりなのは宗助の弟の小六のことであった。小六は高等学校の生徒で、おじに預けていた父の遺産でもって学費・生活費を賄(まかな)っていたが、おじが死んで学業を続けていくのが困難になったのである。これも、父が死んだとき兄である宗助が遺産の処分をおじにすべてまかせたのが原因であると小六は密かに思っていた。
 ある日、宗助は親しくしている家主の坂井から、坂井の弟を宗助に紹介したいといってきた。坂井の弟は満州で実業家みたいなことをしていた。弟が仕事仲間の安井という男と一緒に坂井の家にくるから2人を宗助に合わせたいというのだ。宗助は非常に驚いた。安井とい名前を聞いて頭に血が上るような気持になった。
 宗助は御米には何もいわずに悩みに悩み、結局、鎌倉の禅寺に参禅しようと思い立った。寺の塔頭(たっちゅう)に数日間住んで座禅したり、和尚の講和をきいても悩みは解消されなかった。宗助はすごすごと東京にまいもどった。坂井の弟はすでに満州に帰っていた。
 季節は冬から春になった。御米は春になったことを喜ぶが、宗助はまた冬が来るさとすましていう。そして、物語は終わるのである。

 過去の罪を背負ってひっそり生活する宗助と御米。その罪は償いようがないのである。2人は苦しみながら黙々と生活をしていく。苦しみから逃れるすべもない。
 「生きることは苦しむことだ」と漱石はいいたかったのか。

 
夏目漱石「草枕(くさまくら)」を読む

 夏目漱石の「草枕」の出だしはたいへん有名である。

<山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意 地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。>

 この有名な出だしの作品を読もうと思って手にしたのが大学生のときである。ところが途中で挫折した。とにかく難解な小説であった。難しい言葉がいたるところ迸(ほとばし)り、漢詩などもやたらにでてくる。おまけに西洋の小説についての解釈などもでてきて私の理解力の限界をはるかに超えていた。漱石の教養の深さ、知識の広さには脱帽した。 挫折した大きな理由は難解さよりも筋らしいものがないことであった。はっきりいってまったくおもしろくなかったのである。「吾輩は猫である」も筋がないが、この作品にはユーモアがありそして文章は読みやすかった。「草枕」には筋もなく、ユーモアもなくそして文章も難しかった。かくして私は読むのをやめてしまったのである。
 それから数年たって、やっと「草枕」を読了した。読了したけれども何が書いてあるか皆目わからなかった。「草枕」は「坊っちゃん」の次に書かれた小説である。「坊っちゃん」とははるかに趣が違う小説であるという印象だけはもった。
 理解できないまま何回となく読むうち、こちらも年を重ねてきたせいかだんだんと「草枕」が味わい深いものになってきた。やはり、「草枕」は名作である。

 「草枕」の物語は画家の語りですすめられていく。画家は山路を登って熊本県の山の温泉場にいく。画家の名前はわからないし、画家とはいっているが実際に作品を売って生活しているのかもわからない。芸術家の気質をもっていることは確かだ。東京に住んでいて、東京での生活が煩(わずら)わしくなって遠く山の温泉場にきたのである。むろん目的は絵をかくためである。
 山の温泉場は風光明媚なところで、都会からはほど遠いところにあり、いわゆる桃源郷といってもよいところである。画家は村の名士が経営する由緒ある旅館に泊まる。その旅館には那美という女性がいた。名士の娘で非常に美人であるが、出戻りである。彼女は京都の銀行家に嫁ぐが銀行が破産し、そして離縁されたのである。
 「草枕」に筋があるとすれば画家と那美の丁丁発止であろう。2人は芸術論や人生論を戦わせる。また、画家は旅館の風呂でおぼろげながら那美の裸体を見た。2人の関係がどうなるのかと興味が湧く。
  那美は不思議な女性である。むしろ悪魔的な女性といってもよい。ある意味において「三四郎」の美禰子の原型かもしれない。この世を厭い、いつ池に飛び込んで死んでしまうかもわからない人であった。
 画家はなかなか絵がかけなかった。かきたいものが内から湧いてこなかったのである。 那美には九一という従兄がいた。九一は戦争で満州に出征することが決まっていた。那美たちが停車場まで九一を見送りに行くとき画家もついていった。停車場でそれまで「あなたは戦争で死ねばよいのよ」などと毒づいていた那美は、いざ汽車が動き出すと顔一面に「憐(あわ)れ」を浮かばした。画家はその顔をみてこれは絵になると感じた。そして物語は終わる。

 山の温泉場は現実世界とは切り離された場所にあった。九一は汽車に乗って現実世界へと引っ張られていった。画家は<汽車が見える所を現実世界と云う。汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。>といっている。これは漱石自身の考えであろう。
 画家は山の温泉場で自ら漢詩をつくって読む。中国の詩人たちの漢詩も数多く引用される。どれも自然と一体となるような詩である。自然に還りたいのかと思った瞬間、やはり、「草枕」も「坊っちゃん」と同じように漱石文学の核心である自然と文明の対峙をテーマにしていると思った。
 「草枕」の場合、文明の象徴は汽車であり、その汽車に乗って画家は山の温泉場に来、また汽車に乗って九一は文明の衝突である戦争へと赴くのである。

 「草枕」は西洋文明を知り尽くし、そして東洋の文化に造詣の深い漱石の西洋対東洋の葛藤の書といえなくもない。

 
 
作文道場夏目漱石(なつめ そうせき)
1867年1月5日(旧暦)(慶応3年)2月9日ー1916年(大正5年)12月9日
本名、金之助。江戸出身。帝国大学英文科卒。
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