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読書感想文
 
岡倉天心「東洋の理想」を読む

 1868年の明治維新によって日本は本格的に西洋の文化・文明の吸収に邁進した。それまでの攘夷思想とは一体何であったのか。まして政府の一翼を荷う長州藩は攘夷運動の急先鋒ではなかったのか。薩摩藩も似たようなものであった。
 一旦振り子が右に振れると猫も杓子も右に振れる。日本人にはそんな気質があるのか。明治政府は学制を整え、大学を作り、さかんに西洋の学問を輸入しようとした。西洋人を新設された東京大学に御雇(おやとい)外国人教師として高額な報酬で招聘した。
 御雇外国人教師の1人にアメリカ人のフェノロサがいた。フェノロサは哲学の教師であったが、日本の美術品に興味をもち、日本美術を研究した。フェノロサが美術研究のために京都・奈良などの古都に行ったとき、通訳をしたのが東京大学での教え子であった岡倉天心であった。
 岡倉天心は横浜で生まれ、幼いときから英語を学んだ。18歳で東京大学を卒業した俊英である。卒業論文は「美術論」である。
 岡倉は大学を卒業すると文部省で勤務し、フェノロサの日本美術研究に協力する。1884年、岡倉とフェノロサがそれまで1000年以上秘仏とされていて人の目に触れさせなかった法隆寺の「夢殿観音」を検分したのは有名である。岡倉は明治23(1890)年、新設されて間もない東京美術学校(現在の東京芸術大学)の校長に就任する。

 「東洋の理想」は1903年、ロンドンで刊行されたものである。もちろん英語で書かれている。この本は当然、欧米の人たちに東洋とくに日本の文化の紹介を意図して書かれたものであるが、その裏では、無批判に西洋の文明を吸収している日本に対し警鐘する意図もあったように思える。
  「東洋の理想」は<アジアは一つ。>という文で始まっている。アジアが文化的・地理的に一つだというのでなく、インド・中国などアジアで発生した思想・宗教などが日本に一緒くたに流れ込み、それらが日本的なものに変化していったものだという意味である。 この本は過去から現在までをいくつかの時代に分けて、その時代ごとに文化・美術品のことに言及している。目次は次の通りである。

  序文
1 理想の範囲
2 日本の原始芸術
3 儒教──北方中国
4 老荘思想と道教──南方中国
5 仏教とインド芸術
6 飛鳥時代(550年─700年)
7 奈良時代(700年─800年)
8 平安時代(800年─900年)
9 藤原時代(900年─1200年)
10 鎌倉時代(1200年─1400年)
11 足利時代(1400年─1600年)
12 豊臣および初期徳川時代(1600年─1700年)
13 後期徳川時代(1700年─1850年)
14 明治時代(1850年─現在)
15 展望

 中国の思想(とくに儒教)とインドの仏教がいかに日本文化の基礎になっているかをまず考究している。そして、その基礎の上に日本独自の文化が作られそれに伴なって美術品が制作されてきたことに論が及ぶ。岡倉の論理展開は見事である。
 「東洋の理想」をつらぬく主題はタイトルが示すように理想である。日本芸術の基礎は理想であると言い切っている。この理想の前からすると浮世絵も通俗の域をでないと岡倉は力説する。

<かれらの唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎、などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである。印籠(いんろう)、根附(ねつけ)、刀の鍔(つば)、およびこの時代のたのしい漆器(しっき)類も、おもちゃであって、そういうものとして、そこにのみおよそ真の芸術が存在するところの、国民的熱誠の具現ではけっしてなかった。偉大な芸術とは、その前でわれわれが死にたいと願うところのものである。>(講談社学術文庫『東洋の理想』)

 岡倉は日本芸術の底に流れる理想を熱くかたる。岡倉にかかっては北斎もかたなしである。岡倉は日本の伝統ということをことのほか重要視する。
  日本とは何か、そして日本美術の理想とは何かを考える上で「東洋の理想」は最高の書である。

 
岡倉天心「茶の本」を読む

 1904年に起きた日露戦争は西洋人の目を東洋の一小国である日本に向けさした。西洋人の誰もが日本がロシアに勝つとは思っていなかった。日露戦争は西洋人にいわせれば、やる前から勝負が決していた戦いであった。
 ところが、日本海海戦の大勝利によって、日本は戦争に勝った。俄然、西洋人の日本を見る目の色が変わった。日本を文明国として評価し、評価が段々と嵩じてきて、日本脅威論、いわゆる黄禍論が沸き起こった。
 西洋人は戦争に勝ったことで日本を文明国とした。この文明国であるかどうかの尺度を武力の強弱に求めるという考え方を苦々しく思っていた日本人がいた。岡倉天心である。岡倉は、明治維新以後、西洋文明を取り入れることに汲々としている日本政府の姿勢も冷ややかに見ていたし、近代化されつつある日本しか見ない西洋人の日本を見る見方にも嫌気がさしていた。
 <戦争に勝ったから日本は文明国ではないのだ。日本はベースとしてすばらしい文化をもっているのだ>と岡倉は声を大にして言いたかったに違いない。その声が「茶の本」という一冊の本になった。この本は英語で書かれたもので、その主張は西洋人に向かって発せられたものである。「東洋の理想」を出版するときと同じ動機であろう。

 「茶の本」はまさにお茶について書かれた本である。お茶は日本人だけでなく、西洋人にとっても完全に生活に根付いたものである。特に、日本人の生活を語る上で、お茶は絶対にはずすことはできない。
 日本人は毎日お茶を飲む。お茶を飲むのが当たり前になっている。ところがお茶について深く考えをめぐらす日本人はあまりいない。「茶の本」はお茶がもつ思想的そして哲学的な深さと広がりについて書かれたものといえる。
 「茶の本」は7つの章から構成されている。次の通りである。

第1章 茶碗にあふれる人間性
第2章 茶の流派
第3章 道教と禅
第4章 茶室
第5章 芸術鑑賞
第6章 花
第7章 茶人

 お茶といえば茶道である。表千家、裏千家といわれるように、茶道の形式を確立したのは千利休である。千利休が秀吉の命令によって、自ら命を絶ったことは有名である。
 利休と秀吉の2人の組み合わせはたいへんおもしろい。なぜおもしろいのか。2人はお互いに対極にある人間だからである。秀吉は時の権力者で俗世間のトップに位置し、対する利休は俗を超えたところで生きていた。
 「茶の本」を貫く1つの主題は、お茶が俗を超えたところに存在するということである。それは、お茶のルーツをたどっていくと、お茶は老子の思想に行き着くからである。
 お茶が日本の社会に浸透していくのは、栄西が宋からお茶をもってきてからだといわれている。栄西は禅僧である。お茶は禅と深く関わっていたのである。
 中国には生き方の哲学として、儒教・仏教・道教がある。この中で一番中国社会に浸透しているのは道教である。儒教は孔子の教えを、仏教は釈迦の教えを、そして道教は老子の教えを基礎としている。
 禅は仏教の一派であるが、道教とも深く結びついている。そのため、岡倉はお茶のルーツは道教すなわち老子の教えだとの論を展開するのである。
 老子の教えとは、自然との融合であり、共生である。そしてものの見方はつねに相対的である。生き方としては自由奔放であり、西洋でいう個人主義と似通っている。儒教が力説する礼節なるものはない。儒教はよい政治をするための行動のあり方、心のあり方を説くが、道教はより個人的なものである。
 道教と儒教とは全く違うものだといえる。
 「茶の本」はお茶のことに触れながら、茶室のこと、そして茶人のことに触れている。
 岡倉は横浜で育ち、幼い頃から英語に親しみ、英語を日本語と同じくらいに使いこなした。岡倉は西洋文明を知り尽くした。その岡倉が究極的に見出した生き方は老子が唱えた自然との共生であった。
 質素な茶室のあの空間は自然が凝縮されたものなのであろう。

 

※:写真は、横浜開港記念会館の前にある岡倉天心生誕ノ地の石碑です。

写真は、台東区にある岡倉天心記念公園です。

※:写真は、岡倉天心記念公園にある六角堂です。

※:写真は、六角堂の中の岡倉ら天心像です。

※:写真は、東京芸術大学にある岡倉天心像です。

※:写真は、染井霊園にある岡倉天心の墓の案内板です。

※:写真は、染井霊園にある岡倉天心の墓です。

 
 
作文道場岡倉 天心(おかくら てんしん)。
文久2(1863)年2月14日- 1913年9月2日。
美術家、美術史家、美術評論家、美術教育者。本名は覚三(かくぞう)。横浜生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献した。日本美術院の創設者。
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