数学道場、総合案内
line decor
 
line decor
日本文学編に戻る
名曲を聴きながら
名作を読んでください
line decor
読書感想文
 
坂口安吾「二流の人(にりゅうのひと)」を読む

 戦後まもなく「堕落論」を発表した坂口安吾は一躍時の人となり、文壇の寵児となった。昭和20年から30年に死ぬまでの安吾の活躍はめざましい。
 安吾は八面六臂(はちめんろっぴ)の人で、多種多様な作品を残した。小説・評論だけでなく碁・将棋の観戦記まで書き、小説は自己の内面をするどく抉(えぐ)った私小説から、推理小説・歴史小説・時代小説まで幅広い。推理小説「不連続殺人事件」は最高傑作である。私は古今東西、推理小説の傑作を3つあげろといわれたら、安吾の「不連続殺人事件」、松本清張の「点と線」、アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」をあげる。
 戦後、なぜ安吾は持てはやされたのであろうか。それは、戦後になっても安吾自身は全く変わらなかったからである。安吾は<日本の歴史において、太平洋戦争の敗北による日本社会の変容は明治維新によるそれよりもすさまじい>と述べている。安吾によると、昭和20年8月15日は日本史史上、空前絶後の歴史の分岐点ということになる。
 あらゆる価値が変わり、人々は安吾を新文学の旗手と拍手喝采で迎えるのだが、その実、安吾は戦前とすこしも変わってはいなかったのだ。思想・哲学・生き方・人生観・世界観すべてをひっくるめた安吾という人間は戦争という異常な体験によっても少しも揺らぐことがなかったのである。<人間変わらないものだ>と安吾は身をもっていっているようだ。私が安吾に惹かれるのは、安吾が生きることにおいて変わらない姿勢をもっていたからだ。その姿勢とは、一言でいうと、破壊的合理主義精神といったものである。この姿勢は安吾をよく知らない人をして、安吾が滅茶苦茶な人生を送っている人だと思わしめるが。
 文芸評論家の奥野健男はよく、<私たちは安吾を父親として、太宰治を母親として育った>といっていた。けだし名言である。安吾は破滅的であるが一本筋の通った父親のごとくであり、太宰はやさしく包み込んでくれる母親のようであった。
 私が安吾の作品に接したのは高校生のときで、「堕落論」を読んだ。支離滅裂な評論のようでほとんど理解できなかったように思う。しかし、安吾は私に強烈な印象を与えた。それ以来、長い間、安吾の作品は折りに触れて読み継いだ。安吾もまた、私にとってはとてもなつかしい親しみのある作家の一人である。

 安吾の「二流の人」は稀代の軍師黒田如水が主人公の歴史小説である。黒田如水、通称黒田官兵衛、黒田節の福岡藩の黒田家を興した人であった。黒田長政は如水の息子である。黒田如水は司馬遼太郎の「播磨灘物語」の主人公でもある。
 「二流の人」は3つの話からなっている。『第1話 小田原にて』、『第2話 朝鮮で』、『第3話 関が原』である。主人公はむろん如水であるが、1話、2話では秀吉が圧倒的な存在感で登場する。如水の才能は秀吉が一番よく知っていた。
 晴れて天下人となった秀吉は、身内との夜伽(よとぎ)に、自分がいなくなったら誰が天下人になるかを問う。大方は家康の名をあげるのだが、秀吉は笑って否定する。秀吉は家康ではなく、如水の名をあげる。秀吉は自分の名参謀である如水を心底恐れていたのである。それは、数々の軍功をあげた如水の恩賞は他の武将よりもはるかに少なかったことでもわかる。
 「二流の人」とは類まれなる才能を持ち合わせながら、一流の人間になれなかった如水のような人を表向きはさすのであろう。はたして、如水は「二流の人」であったのであろうか。如水を「二流の人」と認めるとしてもその場合、「二流の人」は否定的にとらえてよいのであろうか。
 不思議なものである。20歳の頃読んだときは、間違いなく秀吉は一流で、如水は二流であった。それから30年以上たつと、どうしても秀吉は一流に思えなくなった。むしろ秀吉こそ「二流の人」ではないかと思われるようになった。逆に、如水は本当に「二流の人」なのだろうか。相手は安吾である。皮肉・逆説・寓意はお手のもの。安吾の意図は奈辺(なへん)にあるのか。 それにしても秀吉の晩年の狂気には本当に恐れいる。無謀な朝鮮出兵、甥の関白秀次とその一族にたいする残虐な仕打ちは常軌を逸したものである。安吾の筆は切れ味よく鉈で木を切ったごとく、人の性格をスパッと描いてみせる。秀吉については<秀吉は大度寛容のごとくであるが、実際は小さいことを根にもって執拗な、逆上的な復讐をする人だった。千利休も殺した。蒲生家も断絶させた。切支丹禁教も二隻の船がもとだった。その最後の逆上までに長い自制の道程があり、その長さ苦しさだけ逆上もまた強かった。>と喝破する。

 自らも天下人を夢見た如水は夢破れたが、その代わり家康の覚えめでたく、息子の長政が領袖の黒田藩は名門として明治維新まで安泰であった。秀吉の一族は関が原以後まもなく潰える。如水は本当は一流の人だったのではないか。この作品は読む人の経験によっていろいろにも解釈できる。まさに名作の証(あかし)である。

坂口安吾「直江山城守(なおえやましろのかみ)」を読む

 直江山城守兼続(かねつぐ)の評価は2分されている。家康をも脅かした知将としての評価と腹黒い策謀家としての評価である。
 私は戦国時代の武将の中で一番好きなのは織田信長である。信長の発想の斬新さには驚かされる。信長の勝利の一因は鉄砲の使い方にあった。当時の鉄砲は火縄銃で、弾を込めてから火をつけるのであるが、実際に撃つまでには多少の時間がかかる。それが火縄銃の欠点であった。
 信長は鉄砲隊を横3列にして、1列目が撃つと1列目の兵は3列目に下がり、2列目のが前に進みでてそして弾を撃つ。順次これを行う。弾を撃ち終わった兵は次に撃つまでに弾をこめ火をつけて待つ。このようにすると弾を間断なく撃つことができるのである。こうして信長は敵を駆逐していった。
 この鉄砲の使い方を激賞したのが坂口安吾である。安吾の信長好きは有名である。信長は武田信玄と上杉謙信に対して恐怖心といってよいほどの警戒心をもっていたといわれる。多くの歴史家は武田と上杉が本気になって天下取りをめざしたら信長はひとたまりもなかったであろうという。だが安吾の見る目は違う。信長は2人とも蹴散らしたであろうという。どだい信長と武田・上杉とはスケールが違うというのだ。それほど安吾は信長に惚れていたのである。私も安吾と同感である。
 戦国の武将の中で、もう1人安吾が惚れていた武将がいる。直江山城守兼続である。私は安吾の「直江山城守」を読んで直江兼続に興味をもった。それまで直江兼続は私には印象が薄かった。上杉家の家老ぐらいしか頭になかった。

 直江兼続は上杉景勝を領袖とする上杉家の家老である。景勝と兼続の関係は幼いころから続いていた。2人の関係は主従関係というより、兼続は景勝の変わりに戦略を練ったりトップのなすべきことをしていた。景勝は兼続に対して全幅の信頼を置いていた。上杉家の方針は兼続が決め、景勝が了承するという形をとった。
 兼続が歴史にその名を残したのは、関が原の合戦において石田三成と結託して家康を欺こうとしたからである。家康の上杉征伐のシナリオは兼続が書いたものだといわれている。家康を白河までおびきよせ、その隙に石田三成が大阪で挙兵して家康の勢力をそぎ落とそうという戦略であった。百戦練磨・手練手管の家康はある程度それを見越して(私は実際のところ家康がわざとそう仕向けたと思うのだが)、白河に向かうのはやめ小山から急遽西に向かった。関が原において家康軍が勝利した。
 合戦後、兼続は家康に謝罪した。すべての責任は私にあるといい、いかような仕打ちも受けると兼続はいった。家康は兼続を殺すこともなく、上杉家も潰さないで米沢30万石に移封した。米沢は兼続の領地であった。兄弟の契りを結んだ三成は斬首された。当然兼続も殺される運命にあったのだ。家康は兼続より一回りも大きな人間であった。

 兼続は清廉で天下を取ろうという強烈な野望はもたなかった人間だと安吾は見ている。しかし、もし兼続が本気になって天下を取ろうとしたらその能力は十分にあったと安吾は見抜いている。
 安吾が兼続に惚れた理由は天下を取れる能力があっても上杉家のナンバー2という天が与えた役割を恬淡として演じたことと、演じたあとの責任のとり方であった。兼続は米沢にいくと清貧のなかで藩ならびに上杉家のために一身を捧げる。兼続は農業の振興をはかった。みずから農業に従事した。また兼続は教養人であった。宋の書物を蒐集したり、漢詩もつくっている。
 安吾は次のように兼続をなつがしかっている。

 <彼の一生はハラン万丈というべきものであった。身は大名のただの家老でありながら関が原の首謀者の一人であり、そしてその戦争に負けた。しかも彼の一生はどこにもアクセクしたようなカゲリがなく、悠々としてせまらない。鉄のような「責任」の念が確立していなければ、こんな生き方はできるものではない。武人としてまことになつかしい人柄ではないか。>

 能力があり無欲であり、そして風流人でもある。さらに、自分の立場を十分にわきまえ責任感がある。安吾がいうように、直江兼続というのは日本人が理想とするなつかしい人柄であったのかもしれない。

坂口安吾「日本文化私観」を読む

 太宰治・坂口安吾を学生時代にむさぼるように読んだ。この2人の作家に強烈に私は惹かれた。若い私の魂に訴えるものがあったからであろう。
 太宰と安吾がなぜ人の心を打つのか。それは彼らが自ら真実だと思うことをあからさまにいうからであろう。
 人間とは変わるものである。自ら真実だと思っていたことも時代そして環境が変わると変化するものである。1945年8月15日を期して日本は180度変わった。黒が白となったといってよい。大東亜戦争が太平洋戦争と名前が変わり、その戦争は聖戦から史上最悪の戦争になった。天皇陛下万歳の声は天皇制打倒の罵声に変わった。価値観が急回転したのである。日本語を廃してフランス語を公用語にしようという大作家もいたし、国を廃して世界連邦を作ろうという大政治家もいた。何を信じてよいかわからぬ混沌としていた時代、戦前と変わらない代表が太宰と安吾であった。
 <子より親が大事>と太宰はいった。<墜ちよ生きよ>と安吾はいった。これらの言葉は日本人の心を揺さぶった。太宰は人があまりにも変わっていくのに恐れおののいた。戦後は太宰にとっては暗黒であった。安吾は自らの真実をおしげもなくさらした。<親がなくて子が育つのは当たり前、親があっても子は育つのだ>と40歳を過ぎて子を持った安吾はいい放った。
 太宰にしても安吾にしても彼らの言葉は魂の叫びであるように私には思われた。私のその気持ちは永遠に変わらないであろう。

 安吾の「日本文化私観」は私が何度も読む随筆である。この作品を読んで私はひとたまりもなく安吾の大ファンになった。安吾とはなんと自由な人であるのかと私は驚きそして羨んだ。安吾にとって環境とは自分を制約する何者でもなかった。空襲すら安吾にとっては快感を催すものであった。安吾は心の命ずるままに行動した人であった。戦争も安吾の生き方を変えることはなかった。
 「日本文化私観」は昭和18年に書かれている。安吾の思想が凝縮されたものである。日本の文化を紹介したものと思ったら大間違いである。奈良や京都のお寺のことは出てくるが文化的にそれらを論じていない。<法隆寺がなくても困らないが、地下鉄がなくなると困る>といっている。
 安吾にとって魂を揺さぶられるほど美しさを感じたのは小菅刑務所、ドライアイス工場そして入り江に停泊している駆逐艦であった。これらの美しさは法隆寺や平等院の美しさとは本質的に違っていた。法隆寺や平等院は美しくなるために加工された美しさであり、それらを見るときには美しさを意識しなければいけない。小菅刑務所などの美しさは意識しなくてもそのまま伝わってくるという。安吾は直接魂に響いてくる美しさが本当の美しさだといっているのだ。
 安吾は若いときに京都に住んだ。毎日、京都の街をぶらついたが、名所旧跡といわれる寺院には行かなかった。安吾が行ったのは場末の旅芸人たちが演じる劇場であったり飲み屋であった。安吾は形式化された美は求めなかったのである。安吾はひたすら生身の原初的な人間を求めた。
 安吾は自然の情というものを大事にした人だ。大儀名文・形式的な考えというものを大いに嫌った。戦中は大義名分・形式的な考え一辺倒の時代である。軍人官僚たちは大義名分を作ることに血道を上げていた。安吾は軍人官僚たちの欺瞞を逸早く見抜いていたのかもしれない。

 安吾は特攻隊を美しいといった。その美しさに理由はないのである。安吾のように自由奔放に生きた人は私から見ればやはり美しい。
 安吾は私には心のふるさとである。

取手駅前にある取手とゆかりのある著名人を記した石碑

※:写真は、取手駅前にある取手とゆかりのある著名人を記した石碑です。

本郷菊富士ホテル跡の石碑

※:写真は、本郷菊富士ホテル跡の石碑です。
坂口安吾は、菊富士ホテルに投宿して原稿を書きました。

麟祥院にある東洋大学発祥の地の石碑

※:写真は、文京区麟祥院にある東洋大学発祥の地の石碑です。
坂口安吾は、東洋大学印度哲学倫理学科卒業です。

東洋大学に建っている設立者の井上円了像

※:写真は、文京区白山の東洋大学に建っている設立者の井上円了像です。

作文道場坂口 安吾(さかぐち あんご)。
1906(明治39)年10月20日 - 1955(昭和30)年2月17日) 。
本名は炳五(へいご)。東洋大学文学部印度哲学倫理科卒業。
読本プレゼント
line decor
株式会社河野 株式会社河野 Net個人指導道場
Copyright © 2007-2016 KOHNO.Corp All Rights Reserved.