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読書感想文
 
山本周五郎「天地静大」を読む

 幕末、経済的に商人は莫大な力をつけ、逆に武士は力を失った。商人の中から、すぐれた実業家が生まれ、数々の企業を起こし、その後の日本の発展の土台となった。商人の力はすさまじかったが、それでも国を変えることはできなかった。国を変えたのは、経済的に疲弊した武士であった。
 明治維新はブルジョア革命であったという学者がいる。台頭するブルジョアジー(商人階級)が幕藩体制を崩壊させたというものである。説得力のある見解ではあるが、私は、商人階級がいくら勃興しても明治維新は起こらなかったと思う。武士がいて、初めて、明治維新は可能であったのである。
 腐っても武士である。武士とは、経世済民、人民のために政治をするものである。武士は、下級武士であろうと、国の政治を司る一員であるという気概を持っていた。この気概が革命を可能にしたのである。商人は、いくら金を持っても、国を動かすという気概はなかった。
 幕末から明治維新にかけての時代を扱った小説は枚挙に暇がない。しかし、内容はほぼ同じで、維新の革命勢力を英雄視した小説ばかりである。西郷隆盛・坂本龍馬・大久保利通のことはよく知っている。名もない、歴史の底に沈んでいった武士たちは何を思っていたのであろうか。
 山本周五郎は江戸時代のことを扱った小説ばかり書いていたが、幕末の動乱を扱った小説は一作しか書かなかった。「天地静大」だけである。それも、この作品には、英雄は出てこない。悩み多き人たちばかりが出てくる。夢も希望もない人たちである。私はこの作品を読んで、武士の世界が亡びて、新しい世界に移行しつつある時代の混沌さが強く印象に残った。
 幕末の動乱とは、結局は、多くの武士たちの苦悩の上で繰り広げられたものかもしれない。周五郎はそれを言いたくて「天地静大」を書いたのだろうと思った。

 「天地静大」の主人公は二人いる。一人は杉浦透であり、もう一人は水谷郷臣(もとおみ)である。二人とも東北の小藩である中邑(なかむら)藩の藩士である。郷臣は藩士といっても、藩主の実弟である。誰もが一目を置く人間である。だが、郷臣はいたってきさくで、誰からもその人柄は好かれた。物語はこの二人の関係を中心に展開される。
 杉浦は結婚したが、結婚生活を送ることなく、江戸に出た。昌平黌で学ぶためである。昌平黌で学ぶにあたっても江戸で生活する上でも、杉浦は郷臣から多大な世話を受けた。 時は幕末である。幕府は強引にアメリカとの通商条約を締結し、幕府は反対派を押さえていた。幕府は瓦解の道を歩み始めた。
 日本中に尊皇攘夷の嵐が吹き荒れて、東北の中邑藩はそれこそ藩を二分する騒動になった。佐幕派・尊皇派はするどく対立した。中邑藩は佐幕派の仙台藩に近く、その影響は大きかった。中邑藩は仙台藩から、東北列藩同盟に参加することを要請されていた。
 藩主は態度を明らかにしなかったが、佐幕派の力の方が尊皇派を上回っていた。郷臣も佐幕派・尊皇派のどちらにもくみせず、中立を保っていた。郷臣は教養人として生きていた。しかし、佐幕派は郷臣を尊皇派と睨んでいた。
 杉浦はいつしか昌平黌をやめてしまった。また、勝手に妻を離縁したので、親から勘当され、浪人となった。しかし、杉浦は学問の道をあきらめず、数学・物理学の洋学を独学で勉強した。数学・物理学が将来の日本にかならず役に立つと思ったからである。
 郷臣は杉浦に、自分に何が起ころうとも学問をし続けるよう激励した。郷臣は佐幕派の一味に襲われ、一命は取りとめた。しかし、最後は藩の崩壊をふせぐために、自刃した。 杉浦は学問の仲間の妹と結婚し、貧しいながらも学問を続けようとした。

 明治維新とは、江戸が東京になることでも、丁髷がざんぎり頭になることでもなく、<武士の精神>が失われたことであると、私は「天地静大」を読んで、痛切に感じた。

 
山本周五郎「樅ノ木は残った」を読む

千代田区将門首塚にある酒井家上屋敷の案内板 山本周五郎という作家は、権威・権力というものに猜疑の目を向けていた。周五郎は直木賞を辞退している。理由は、「私は賞を貰うために小説を書いているわけではない」というものだったらしい。
 宮本武蔵をくさした短編「よじょう」を挙げるまでもなく、周五郎の神格化された英雄に対する目は厳しい。逆に、歴史上、極悪人といわれている人間には、真摯に向き合う。 寛文年間に起こった伊達騒動では、原田甲斐は極悪人であることが定説である。しかし、周五郎の目からすると、原田は伊達藩62万石を守った忠臣になる。この原田を主人公にしたのが、「樅ノ木は残った」である。
 伊達騒動とは、幼い藩主の後見役で藩を自分の意のままにしようとした伊達兵部とそれに対抗する伊達安芸の権力闘争である。原田甲斐は兵部の一派であった。原田は、酒井雅楽頭の屋敷で、伊達安芸を切り殺してしまうのである。
 伊達騒動の発端は、三代藩主伊達綱宗が吉原で遊蕩三昧にくれているという理由で、幕府から、21歳という若さで、隠居を命じられたことである。この綱宗の吉原での遊びは、その後、誇張され、綱宗は吉原の高尾太夫に入れあげ、高尾をその体重と同じくらいの金で身請けしたとか、高尾が他の男に恋し、綱宗が嫉妬のあまり、高尾を逆さ磔にして殺したという話まである。周五郎はこの風説を一蹴する。綱宗の吉原遊びはでっち上げだとするのである。伊達騒動は歌舞伎で「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」というタイトルで上演された。大変な人気であった。

 「樅ノ木は残った」は、綱宗を遊蕩に誘い出した廉で、4人の側近たちが上意討ちにあって殺されるところから始まる。綱宗は隠居し、品川の下屋敷に蟄居となった。
 綱宗の遊蕩という事実はなく、これをでっちあげたことも上意討ちも、伊達兵部が裏で意図したことであった。兵部は、伊達藩の祖である政宗の十男であり、嫡子の宗興の正室に酒井雅楽頭の養女を迎えていた。
 酒井と兵部は利害が一致したため、2人は密約を結んだ。伊達藩を潰して、分割して新たに複数の藩にするのである。その一つは30万石の藩で、これを兵部に与えると酒井は約束した。伊達藩という大藩を潰すことは幕府の隠された念願であった。それを大老の酒井がやることで、酒井の名が上がる。伊達藩を潰すには、大義名分が必要であった。それで、兵部は伊達藩に、潰されてもおかしくない騒動を起こそうとした。綱宗の遊蕩もその一つで、兵部は黒幕として暗躍するのである。
 伊達藩の家老である原田甲斐は、酒井と兵部の密約を見破り、伊達安芸・茂庭周防と図って、酒井と兵部の密約を阻止することに動く。そのためには、原田は、自分が兵部の一派だと回りの者たちに思わせる演技をした。
 原田は忍耐強く、人からどう思われようと、決して本心を明かさなかった。そのため、原田に長く従う側近たちも、原田から離れていった。原田は、妻さえも離縁した。
 原田は上意討ちで殺された夫婦の娘の宇乃の面倒をみていた。その宇乃に原田は庭にある樅の木をさして、「私はあの木が好きだ」そして「なにもものを云わない木だ」と語った。宇乃は成長するにしたがって、原田を愛するようになり、樅ノ木を見守り続けた。
 ついに原田は酒井と兵部の密約を書いた証文を手に入れるのに成功した。それを、幕府の老中たちが一同に会する評定で公にするところまでこぎつけた。評定は、急遽場所が変更され酒井邸で行われることになった。酒井は証文が公にされることを察知して、酒井邸に集まった原田・伊達安芸を含めた4人に刺客を向け、4人を斬らせた。異変を感じ、原田たちのいる部屋にきた一人の老中に、原田は息絶える直前、これは私の乱心で起こしたものであると言った。老中は、原田の意を察して、伊達藩62万石は安泰だと原田に向かって叫んだ。

 周五郎は、権威・権力は重んじなかったが、人間の誠(まこと)は重要視した。藩を守るために、自分の一族が皆殺しにされても、悪役に徹した原田の姿は誠を通そうとする姿そのものである。太宰治ではないが、私は「樅ノ木は残った」を読んで、義とは何と美しく哀しいものであるかと思った。

※:写真は、千代田区将門首塚にある酒井家上屋敷の案内板です。

 
作文道場山本周五郎(やまもと しゅうごろう
1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日。
山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
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