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読書感想文
 
谷崎潤一郎「春琴抄」を読む

谷崎潤一郎誕生の碑 日本の作家には文豪あまたあれど、大文豪と問われて真っ先にあがるのはやはり谷崎潤一郎ではないだろうか。とにかく圧倒される。それは作品ばかりでなく、私生活においてもだ。

 谷崎は衣・食・住そして女性に対しても贅を尽くした。思い浮かべるのは終戦直前の谷崎と谷崎が師匠と慕っている永井荷風との再会のことだ。戦時中、谷崎は岡山県のある山間(やまあい)の町に疎開した。そこへ、東京大空襲で麻布の家を焼かれた荷風が訪ねてくる。谷崎は夫婦で荷風を手厚く接待する。そして、荷風が東京に帰るとき、谷崎の奥さんは荷風におにぎりとおかずを持たせる。そのおかずは牛肉の煮たものと海苔の佃煮であった。荷風はおいしそうにそれを汽車の中でほおばる。時は終戦直前である。一般市民には牛肉どころか、お米すら手に入らなかったのである。

 江戸時代の料理本に『豆腐百珍』というのがある。これは豆腐の百種類の料理法を示したもので、谷崎は百種類の料理法をすべて試して食したそうだ。谷崎は天性の美食家であった。
 美食は谷崎の作品にもいろいろなところで顔を出す。今回の名作の「春琴抄」の主人公春琴も大の美食家で、女だてらに鯛が大好物。膳にはたくさんの皿が並んだ。料理人は佐助で、佐助は料理がとてつもなく上手になった。
 <佐助は鯛のあら煮の身をむしること蟹蝦(かにえび)等の殻を剥ぐことが上手になり鮎などは姿を崩さずに尾の所から骨を綺麗に抜き取った>
 鮎の骨を尾の所から姿を崩さずに抜きとることができるのだろうか。春琴を神様以上に畏れ敬う佐助は日々の精進の結果できるようになったのだろう。

 美食だけでなく、趣味の世界でも常人を超えている。春琴の趣味は鶯(うぐいす)である。家一軒買えるようなとほうもない値段の鶯を飼って、その啼き声に聞き入るのである。谷崎も似たような趣味をもっていたのだろうか。

 さて、「春琴抄」についてである。盲目の春琴とその付き人である佐助との関係を私たちはどうみたらよいのだろうか。やはり2人の関係は異常といえるのか。
 春琴と佐助が実在の人物であることは、冒頭の墓の場面からわかる。谷崎が春琴と佐助の墓を訪れるのだ。「春琴抄」は佐助が春琴の三回忌の折りに書いたといわれる「鵙屋春琴伝」をベースに話はすすめられる。
 9歳にして完全な盲目となった鵙屋琴は、本格的に琴三味線の修業をする。師匠から春の名1字をもらい春琴と号し、独立して弟子をとるようになる。生田流においては春琴の右に出るものがないというほどの名人である。
 佐助は春琴の幼少の頃からの付き人であり、それが弟子にもなり、全面的に春琴の面倒をみる。美人で傲慢であるため春琴は回りの人間からは妬まれた。そのためかある日、賊に寝込みを襲われ、熱湯を顔にかけられる。それ以来春琴は自分の顔を人に見せることはなかった。それを察してか佐助は自ら、自分の目に針を刺して失明してしまう。春琴は佐助が失明したのをことのほか喜んだ。春琴と佐助が本当に結ばれるのは佐助が失明してからだ。2人が同じ世界で生きることになったからだ。

 春琴と佐助の関係をサド・マゾの関係とも性倒錯者たちの関係ともいえなくはない。だがまぎれもなく「春琴抄」は芸術作品である。谷崎文学の中でも白眉といえる。

 1人の男が1人の女に徹底的にかしずく。身も心もすべて女に捧げる。女はそれを当たり前のように受け止めるが、女は男に対して情けはもたない。佐助は厠でも風呂でも春琴の傍にいる。下の世話まで、春琴は佐助にさせている。春琴は佐助に対して羞恥心を一切もたないのである。女王が奴隷に対して羞恥心をもたないと同じことなのか。
  だが、春琴と佐助は男と女の関係をもっていたのである。2人は4人の子供をもうけるのだが、春琴にしても佐助にしても子供たちに愛情をもったことはない。
 女王と奴隷の関係でなおかつ男女の関係を結ぶ。こんな関係が2人を見ていると浮かんでくる。谷崎文学のすごさはこのような関係があったにしても、倫理のつけ込む余地がないことである。異常で異様な世界を巧緻な細工をほどこした文体を用いて垣間見せ、読者である私たちの感性・感覚に訴えてくるのである。そして私たちは恍惚としてその世界に惹き込まれるのである。
 「春琴抄」を読んだあとは、異様な世界を見たという印象ではなく、春琴と佐助という女と男の美しいまでの愛の形を見た思いがする。

 谷崎の作品ではよく見られるが、特に「春琴抄」が白眉なのは、作品中にでてくるたくみな大阪弁である。春琴が使う大阪弁によって、春琴の性格、心理状態が見事なまでにわかるのである。これほどうまく大阪弁を使いこなし、その効果を計算している作家は、他にいるのだろうか。大阪出身の作家が使う大阪弁とは少し違う気がする。
 谷崎は生粋の東京(江戸といったほうがよいかもしれない)人である。東京の日本橋で生まれ育ったのである。その谷崎が関西に移住したのは関東大震災の後である。生粋の江戸っ子だったからこそ、大阪弁の良さを大阪人以上に理解したのかもしれない。大阪の言葉に、谷崎は日本人の真の原型を見たのだろうか。

(写真は、谷崎潤一郎の生誕地の碑、東京都中央区日本橋蛎殻町)

谷崎潤一郎「少将滋幹(しげもと)の母」を読む

日本橋浜町 浜町公園  <東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ>
 菅原道真が太宰府に左遷され、京を去るときに作った歌である。権力の中枢にいた菅原道真は左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、都を離れることになったのである。
 道真の時平に対する怨みはすさまじく、死んでもなお怨霊となって、時平一族を襲った。道真の祟りのためか、時平の一族の隆盛は長くは続かなかった。道真の霊を慰めるために、人々は道真を祀(まつ)った。これが天神様である。現在では学問の神様として親しまれている。

 歴史上、藤原時平は評判の悪い人である。やはり、理由はどうあれ謀(はかりごと)をして、人をおとしめる人間は嫌われるのであろう。
 谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」も藤原時平(ふつうは「ときひら」と読むのであるが、「少将滋幹の母」では谷崎は「しへい」と読んでいる)は深謀遠慮をめぐらす人間として描かれている。しかし、そんなに悪人めいてはいなくて豪放磊落な人間としても描いている。
 時平の伯父に大納言藤原国経というものがいた。国経は80歳近い老人であったが、その妻は絶世の美女であるとの誉れが高かった。甥の、今をときめく左大臣の時平はそのうわさを聞きつけ、好色で有名な平中(平貞文。芥川龍之介の「好色」の主人公)に国経の妻のことをききただす。そして、時平は国経に取り入ってうまうまと彼の妻を自分の北の方にしてしまった。
 少将滋幹は国経と時平に半ば奪い取られた妻との間にできた子である。滋幹の母が時平に連れ去られたとき、彼女は20歳ぐらいで、滋幹は5歳ぐらいであった。滋幹の母が時平の北の方になってからまもなく滋幹は母に何度か会いにいっているが、7歳ぐらいになるともう母の許へは行かなくなる。実は、行かなくなったのではなく行けなくなったのである。それから40年、滋幹は母の面影を追い続ける。

 「少将滋幹の母」は哀しく、切なく、そして美しい物語である。平安朝の絵巻物を見ているような気もしてくる。私は初めて「少将滋幹の母」を読んだとき、読み終わると胸がじーんとして、しばらく余韻に浸ったことを覚えている。滋幹の母を思う気持がじかにこちらに伝わってくるようだった。
 それまで、私は「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」「細雪」などを読んでいたが、「少将滋幹の母」は谷崎の作品としては少し趣が違う気がした。この物語は谷崎文学の特徴である耽美的要素が表にあまり強くでていない。だが、到るところに芸術的な技巧が施されている。平中が時平の北の方になった滋幹の母に歌を送るのに、滋幹の腕(かいな)に歌を墨で書く場面は最たるものである。芸術作品とは、そして巨匠の作品とはまさに「少将滋幹の母」をさすのではないかと思った。あの谷崎がこんなにも息子が母を思う美しい物語を書くなんてと感動もした。

 滋幹が母に会えなくなって40年もたつと、時平の一族は道真の祟りのためか、滋幹の母を除いて死に絶えた。滋幹の母は60歳を優に超えても生きながらへ、出家して尼になり、西坂本に庵(いおり)を結んだ。その庵に40歳半ばを超えた滋幹が訪ねてくる。
 滋幹が40年振りに母に再会する場面は感動的である。「お母さま!」といって、地上に跪(ひざまず)き、そして、母の袂(たもと)をとり、その袂で涙を拭った。母は40年昔のあのなつかしい香りを漂わせていた。
 まるで童話の世界のような場面である。息子が母親を慕う気持が見事に描かれている。私は谷崎の厖大な作品の中で、どれが好きかと問われたら間違いなくまず「少将滋幹の母」を挙げる。

 それにしても、谷崎の古典の造詣の深さには畏れいるばかりである。「少将滋幹の母」も「今昔物語」「宇治拾遺物語」「平中物語」「古今和歌集」などいろいろな古典をベースにしている。私は大学生の頃、谷崎の「源氏物語」の現代語訳、いわゆる「谷崎源氏」を読んだがちんぷんかんぷんであった。今回、「少将滋幹の母」を読み直した機会に、また「谷崎源氏」に挑戦してみたくなった。

(写真は、谷崎潤一郎の生誕地にほど近い、日本橋浜町にある浜町公園。谷崎の作品の中にも浜町の地名はよく出てくる。この地は江戸時代肥後藩の屋敷があり、現在でも加藤清正を祀っているお社がある。)

 
谷崎潤一郎「刺青(しせい)」を読む

 処女作がその作家の才能・資質をすべて表しているとよくいわれる。私は谷崎潤一郎の「刺青」を読むたびにこのことを思いだす。「刺青」は谷崎が24歳のときに発表したものだ。谷崎の長い文壇生活の第一歩をなす作品である。
 私は谷崎のどの作品を読んでも才能というものを感じる。それは24歳のときに書かれた「刺青」も同様である。この作品を読んだときは本当に24歳の人が書いたのかと疑わせられるほど芸術的完成度のきわめて高いものであると思った。圧倒されたといってもよい。私が初めて谷崎の作品を読んだのは「痴人の愛」であったが、「痴人の愛」とは違った感動を「刺青」は私に与えてくれた。

 「刺青」の主人公は刺青師(ほりものし)の清吉である。時は天下泰平の江戸時代、舞台は江戸下町である。
 清吉は刺青師としては腕ききであった。江戸ではベスト4にはいるぐらいの腕であった。だが、清吉は以前浮世絵師の渡世をしていただけに刺青師に堕落して、満足しきれないものを感じていた。清吉の心の中には、人知らぬ快楽と宿願とが潜んでいた。
 清吉の針が男の肌を突き刺すとき、真紅に血を含んで脹れあがる肉の疼きに耐えかねて、たいていの男は苦しき呻き声を発した。その呻き声が激しければ激しいほど清吉は不思議なほど愉快を感じたのであった。
 清吉の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それにおのれの魂をほり込む事であった。その光輝ある美女に対しては清吉にはいろいろな注文があり、なかなかその美女に出会うことができなかった。
 ある日、清吉が深川の有名な料理屋の前を通りかかったとき、駕籠(かご)がその店の前におかれていた。駕籠のすだれのかげから真っ白な女の素足のこぼれでているのに気づいた。清吉はその足の持ち主こそ自分の求めている女だと直感する。
 翌年、駕籠の女が清吉のもとへ訪ねてくる。その女は清吉が懇意にしている芸妓の妹分であった。清吉が見抜いたとおり、女は男をひれ伏させるほど魅力的な魔性の女であった。清吉が長年待ち望んでいた女であった。清吉はいやがる女に麻酔をかがせて眠らせ、その背中に1針、1針魂を込めて針を刺し、見事な女郎蜘蛛をほった。
 明け方、清吉は絵筆をおいて、女の背にほり込まれた蜘蛛の形を眺めた。その刺青こそ彼の生命のすべてであった。
 女は清吉から魂を注入され、今まで潜んでいた魔性が浮き出てきた。女は男を肥料(こやし)として生き、男たちに君臨する女王ともいうべき存在になった。その最初の肥料が清吉であった。

 この「刺青」は長いものではない。文庫で10頁程度の短編である。この短編の中にいわゆる谷崎文学のエッセンスが凝縮されている。そのエッセンスとは女の官能美そして肉体的苦痛から起こる快感であり、それらが昇華して芸術の域まで高まっている。
 「刺青」は男が本来もっている女の肌へのあこがれを刺青という非常にグロテスクな形で表現したものともいえる。
 谷崎の才能をいち早く認めたのは永井荷風であった。やはり天才は天才を見つけるのに敏であったのであろう。荷風は諸手をあげて、谷崎の才能を賛美し、谷崎の作品を評価した。荷風は谷崎の作品のすばらしさの1つに文章の完全さをあげている。
 この「刺青」は女の官能美そしてサド的世界を描いたともいえる。一歩間違えば単なる好色の読み物になってしまう危険性のある題材ではある。それが谷崎の筆にかかると見事な芸術作品になる。
 谷崎文学のすばらしさの土台はやはり谷崎の文章のうまさにあると思う。この「刺青」は文章のうまさを遺憾なく発揮している。

 
作文道場谷崎 潤一郎(たにざきじゅんいちろう)。
1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日。
小説家。『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。
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