数学道場、総合案内
line decor
 
line decor
日本文学編に戻る
名曲を聴きながら
名作を読んでください
line decor
読書感想文
 
谷崎潤一郎「吉野葛(くず)」を読む

 奈良県吉野といえば日本の歴史の上で何回となく顔を出す。それも歴史が大きく動くときに現れるのである。古くは天智天皇亡き後、天智天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子供の大友皇子が壬申の乱を起こす際、それまで大海人皇子は吉野宮にいた。
 吉野を歴史上最も有名にしたのは、天皇家が南朝と北朝に分離したとき、南朝が吉野に置かれたことである。明治時代は南朝のことを吉野朝と称したように、吉野は政治の中心であったわけだ。南朝で、後醍醐・後村上・長慶・後亀山天皇が政治をとった。室町幕府の将軍足利義満が調停にのりだし、後亀山天皇は京都に帰り、後小松天皇に神器を渡して南北朝合体がなった。
 吉野は何も政治の中心であったから歴史の上に登場したわけではない。大和にあって、近くに熊野を控えているという地理的条件から、哀れを催すような薄幸な人たちが多く吉野を訪ねてきた。その中には、悲劇の英雄源義経とその愛妾の静御前がいる。静御前は吉野で捕えられ、鎌倉に送られた。静御前が鎌倉八幡宮で、頼朝夫婦の面前で舞を踊ったのは有名である。そのとき彼女がうたった歌は亡き義経を慕うものであったという。
 吉野は日本人にとって心の故郷のようなところである。吉野に行けば私たちは何か神秘的で温かく心をなぐさめてくれるものに出会いそうな気がする。

 谷崎潤一郎の「吉野葛」は吉野の神秘性を余すところなく描き出したたいへん美しい作品である。
 「吉野葛」は随筆的に書かれている物語で、谷崎本人である「私」が語り手である。
 「私」は既に20数年前、高等学校時代の友人津村に誘われて吉野へと出かけた。南朝最後の天皇である後亀山天皇の玄孫(孫の孫のこと)である自天王のゆかりの地や静御前がたたいたという鼓を見に行こうとしたのである。
 吉野に出かけたとき、「私」は友人の津村からはじめて津村の生い立ちのことを含めた身の上話を聞いた。津村は「私」と一高時代の友人で、「私」は高等学校を卒業するとそのまま大学へ進学したが、津村は一旦大阪の実家に戻るといったきりそのまま学業をよしてしまった。 津村は幼い頃両親を亡くしている。父はもとより、母の顔すら記憶になかった。幼いときから大人になるまで津村は母のことを思い続け、その面影を追い求めた。狐が化けた母でも一目母に会いたいと思った。
 津村は家にある母の形見をすべて調べ、母のことを必死で探った。その結果わかったのは母が遊女であったことである。母の実家は由緒ある家であったが、明治維新になり商売がうまくいかず、三女であった母は大阪の遊女屋に売られた。遊女になったばかりの十代半ばの母を父となる男が見初め、身請けしたのである。津村は母の実家が大和吉野にあることを突き止め、すぐさま吉野へと向かった。津村は吉野の村を虱つぶしに探し、母の実家を見つけた。その実家には母の実の姉が健在であった。
 今回津村が「私」を誘って吉野に来た一番の目的は、母の実家に出入りする農作業の手伝いをする親戚の女の子に求婚するためであった。その女の子は美人ではないけれど、津村には母を偲ばせてくれたのである。
 その女の子が現在の津村夫人であった。

 子が母を思うことは最高の傑作である「少将滋幹の母」をあげるまでもなく、谷崎文学の1つの大きな主題である。
 「吉野葛」は吉野という土地の神秘さ・美しさを醸しながら、母と子の情愛を美しく描いている。読めば読むほど思わず唸ってしまうほどの名作であり、自然・歴史・人間の情が渾然一体に織り成された最高の芸術作品である。

谷崎潤一郎「蓼(たて)喰う虫」を読む

 谷崎潤一郎の才能を逸早く見出したのは永井荷風である。荷風は谷崎の処女作である「刺青」を激賞した。以来2人の師弟関係ともいえる友情関係は生涯に渡って続いた。
 谷崎と荷風の2人の文豪にはいくつかの共通点がある。その1つが西洋の文化と日本の文化・伝統に造詣が深いということである。近代と前近代の粋を併せ持った人たちともいえる。ところが、2人の近代と前近代に対する見方は少し違っている。荷風は近代(といっても日本的近代ではあるが)と前近代を対立したものと見る傾向が強く、近代を否定しながら前近代(特に江戸)なるものへと傾斜していく。
 谷崎には近代と前近代との対立はない。「細雪」は近代と前近代をうまく融合して書き上げた名作である。その他の作品では、近代的なもの前近代的(古典的といったほうがよいかもしれないが)なものをうまく棲み分けて書いた。
 荷風の内面には近代と前近代との相克が間違いなく存在したが、谷崎の内面にはそれはなかったようだ。と私は思ってきたのだが、谷崎の「蓼喰う虫」を読み直して、さては谷崎にも近代と前近代の葛藤はあったのかといくらか考え直した。
 戦後になって谷崎は自分の作品を振り返って、「吉野葛」と「蓼喰う虫」を思い出深い作品にあげている。おそらく谷崎は自分の書いた作品の中でも「蓼喰う虫」は特異なものと思っていたのではなかろうか。

 「蓼喰う虫」の主人公は要(かなめ)・美佐子の夫婦である。この夫婦は結婚して10年以上たつ。2人には10歳の息子がいる。要は会社の重役で美佐子は美人である。あきらかに上流階級に属する人たちであるが、この夫婦は変わっている。妻の美佐子には夫である要公認の恋人がいたのである。この恋人同志はゆくゆくは結婚する予定である。すなわち要と美佐子はまもなく離婚をするというわけである。
 要と美佐子は結婚して以来夫婦仲は傍目からは良くみえたのであるが、実は、結婚して数年たつと2人は自分たちは性的に合わないことがわかった。それ以来彼らの性的営みはなくなった。
 美佐子は恋人をつくり、要は金で買える女を相手にした。美佐子の恋人は須磨におり、彼女はちょくちょく買い物に行くといって須磨に出かけた。要は高級売春宿の外国人娼婦の馴染みとなっていた。
 2人は離婚するに際し、息子のことなどを要の従妹に相談した。従妹は2人が離婚することに賛成してくれた。問題は美佐子の父親であった。
 美佐子の父親は古風な人で60歳にもならないのに隠居して老人ぶっていた。妻をすでに亡くしていたが、美佐子よりも若い20代前半の娘を妾として生活の一切の面倒を見させている。その妾の名はお久といった。老人はそのお久を自分の好みにあった人間になるように指導していた。料理の作り方・習い事・遊びから日常の挙措動作にいたるまで老人は手取り足取り教えた。お久は老人の好みを覚え、老人を満足させるために努力した。お久は三味線・琴を習い、長唄を歌った。
 老人は人形浄瑠璃が好きで、要と美佐子を大阪の文楽座に誘ったことがある。それをきっかけとして老人は要1人を淡路島に人形浄瑠璃見学に連れ出した。もちろんお久も一緒である。そこで、要はお久をじっくりと観察することができた。
 美佐子と要はいよいよ老人に離婚のことを説明するために京都にある老人の家に行った。老人は美佐子と2人だけで話すといい、近くの料亭に行った。要とお久は家に残された。そこで、要はお久の表情に人形浄瑠璃の人形の面影を見出し、もしかしたら、自分の求めているのはお久みたいな女ではないかと思った。

 穿った見方をすれば、美佐子は近代の象徴であり、お久は前近代の象徴ともいえる。
 男の意のままになる、妖しい表情をもつ人形みたいな女を本能的に男は求めるのであろうか。もしかしたら「蓼喰う虫」は恐ろしく耽美的な小説といってもいいかもしれない。

谷崎潤一郎「猫と庄造と二人のおんな」を読む

 小説をいろいろと読んでいると、ときどき人間のあるべき姿とは何かと思うときがある。人間の理想的な姿というのではなく、何となくすわりのよい姿といった感じのものである。特に、谷崎潤一郎の作品を読むときにその感を強くする。
 谷崎にとって、美と悪は同義であって、谷崎はこの2つに跪拝(きはい)する人間を執拗に描いた。「刺青」「痴人の愛」「春琴抄」などをあげれば十分であろう。これらの作品を読むと、最初は違和感を覚えるが、よくよく読んでみるとどこか納得してしまうのである。それは谷崎の筆の見事さにもよるのであろうが、それ以上に、それらの作品が人間のあるべき姿というものをまざまざと私たちに示しているからではないであろうか。
 美しい女の奴隷になる男の姿は人間本来の姿であると私たちは心の奥底で認めているに違いない。<痴人>こそ人間の本来の姿であると谷崎はいっているようであるし、谷崎自身、自分を<痴人>と思っていたところがある。
 <痴人>とは別のいいかたをすれば本能で動く人間といえるかもしれない。その意味では「源氏物語」の光源氏も代表的な<痴人>であろう。すばらしい血統とすぐれた知性と教養を合わせもった貴公子も所詮は本能の赴くままに行動する<痴人>であったのだ。  <痴人>に身分の違いはない。人間ならば誰でもが<痴人>になる資性をもっているものである。町の荒物屋のうだつのあがらない女房の尻にしかれた中年男だって十分に<痴人>になる。
 谷崎の「猫と庄造と二人のおんな」はしがない中年男の<痴人の愛>をおもしろおかしく描いた小説である。

 「猫と庄造と二人のおんな」はそのタイトルの順位が示すように、主人公は猫である。名前をリリーという。このリリーをめぐって、庄造という中年男と庄造の元妻と現在の妻の女2人の3人が丁丁発止をするのである。
 庄造は一応蘆屋の荒物屋の主人であるが、荒物屋は形ばかりで売り上げはほとんどなかった。最初の妻が品子のときは、品子が近所から仕立物の仕事をもらって一家は糊口をしのいでいた。庄造の家には猫のリリーが長いこといた。庄造はリリーを、まさに猫かわいがりにかわいがった。妻のことはほっといて庄造はリリーを四六時中手元においた。庄造はリリーと同衾し、おまけに食事も口移しで食べさせることもあった。庄造のその姿を見て妻の品子は嫉妬した。 
 品子はリリーを嫌った。だが、品子は同居する姑すなわち庄造の母親にうまく謀られて、庄造と離縁させられた。母親は資産家である兄の娘つまり自分の姪である福子を庄造の嫁に迎えたのである。福子はだらしない女であるが、父親が裕福なためお金には困らなかった。庄造の家も経済的には安定した。
 おもしろくないのは品子で、品子は一計を案じ、庄造の家からリリーをもらうことに成功した。リリーをもらえば庄造と復縁できるかもしれないと思ったのだ。福子にしてもリリーを品子に譲ることには反対しなかった。庄造は泣く泣くリリーを手離した。庄造はリリーがいなくなったあと、リリーのことを思い続けた。リリーの姿を見なくなって約ひと月半、、庄造は思い切ってリリーに会いに行った。品子は妹夫婦が住んでいる家の2階の一部屋を間借りしていた。
 庄造は品子の妹初子に頼んで、品子がちょっとの間、外出したのを幸いにリリーがいる部屋を訪れ、リリーと再会する。そのとき、初子が姉がもうすぐ帰ってくると報告した。庄造は慌てふためいて家の裏から往来に飛び出した。物語はここで終わる。

 一介の生活力のない男がまさに一介の猫にぞっこん惚れ込んだ。そこに男と猫を中心とする小宇宙ができあがる。その小宇宙の中で、男は思い切り人間らしさを発揮するのである。私はふと人間の本来の姿はこんなもんだという気がした。
 「猫と庄造と二人のおんな」は人間の本質を見事に描いた谷崎文学を代表する名作である。

 
作文道場谷崎 潤一郎(たにざきじゅんいちろう)。
1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日。
小説家。『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し、文豪と称された。
読本プレゼント
line decor
株式会社河野 株式会社河野 Net個人指導道場
Copyright © 2007-2010 KOHNO.Corp All Rights Reserved.