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読書感想文
 
井上靖「夏草冬濤(なつぐさふゆなみ)」を読む

 現在、中学高校の6年間の一貫教育が見直されている。有名な私立学校ではほとんどが中高一貫教育である。中高一貫にすると余裕をもって教育できるからであろう。
 何も中高一貫教育は今に始まったものではない。戦前の中学は5年教育であった。それが戦後別れて現在の中学3年、高校3年になったのである。
 昔は、義務教育は小学校までで、小学校6年間を終えると、中学に進みたい人は中学の入学試験を受けた。当時の中学は数が少なく、中学に入学するのは難しかった。中学校は地方では大きな町にしかなかった。
 中学は5年教育であったが、成績の優秀な生徒は4年生のときに、入学試験に合格すれば、高等学校に進むことができた。今でいう飛び級みたいなものである。
 戦前の中学生は一体どのような学校生活を送っていたのか。井上靖の「夏草冬濤」は、大正時代の中学生を主人公にした小説であり、「しろばんば」に続く井上の自伝小説でもある。「しろばんば」では、小学生時代を扱っている。

 小学校を卒業した洪作は、猛勉強の結果、浜松中学に入学した。浜松には洪作の両親がいたが、1年もすると軍医である父親は、台北に転勤になった。
洪作は台北にはついて行かず、浜松中学から沼津中学に転校し、三島の伯母の家に下宿して、学校に通った。
 「夏草冬濤」は洪作が沼津中学の3年生のときから始まる。
 洪作は、三島から沼津へは汽車ではなく、歩いて通った。三島に住む友人の小林と増田と一緒である。3人は毎朝、銀行の前で落ち合い、沼津までの5キロメートルの道のりを歩いた。歩きながら3人はたわいのないおしゃべりをした。
 小林と増田はそれぞれ成績はよくなかったが、2人は洪作は成績上位者だと思っていた。事実、洪作は浜松中学を一番の成績で入学して、沼津中学に転校したときも、成績はトップクラスであった。ところが、洪作は勉強を怠けて、このところ、成績は下がりぎみである。
 沼津中学では、成績の悪い生徒の保護者を学校に呼びつけるしきたりがあり、洪作も小林も増田も保護者が学校に呼ばれた。案の定洪作の成績は下がっていた。小林と増田とも変わらなかった。
洪作は、将来こうなるという目標もなく、ただ、漠然と高等学校に進学するという予定で、毎日を勉強もしないで過ごしていた。
 洪作はいつしか、小林と増田とも疎遠になり、新しい仲間と付き合うようになった。その仲間とは、1学年上の藤尾・木部・金枝であった。3人とも洪作の1歳年上なのであるが、非常に大人びていて、そして不良っぽかった。
 藤尾・木部・金枝たちは不良っぽく見えたが、実際にはそうではなく、文学少年たちであった。3人は和歌・詩・小説をよく読み、木部は自ら和歌を創作した。洪作は3人とよく海岸に行き、3人が石川啄木の歌などを読むのをきいた。洪作は彼らが歌う歌をきいて、心がどこかなごむのを感じた。
洪作は彼ら3人と較べると、知識も教養もまったくなかったが、なぜか、3人に惹きつけられた。しかし、3人と付き合えば付き合うほど、洪作の成績は下がった。
 洪作はかねてから、成績が落ちたら、沼津の寺に下宿して学校に通わせると母親から言われていた。結局、洪作は沼津の寺に移った。物語の最後、藤尾たちと西伊豆に旅をした。木部はたくさん歌を作った。

 藤尾・木部・金枝たちと付き合うようになって、田舎育ちの洪作の意識が徐々に変化していくのが見て取れる。多感な少年時代に文学少年たちに出会ったことが、洪作の将来の方向をうっすらと決めたように思う。井上が作家になるきっかけは、中学時代にあったようである。

 
井上靖「北の海」を読む

金沢 旧四高校舎 現在の中等教育とは中学・高校の教育をいう。戦前は中等教育といえば中学の教育のみをさした。戦前の中学は5年制であったが、優秀な生徒は4年生のときに試験に合格すれば、上級学校である高等学校に進めた。普通は、5年生を終了してから高等学校の試験を受けた。
 戦前の高等学校というのは現在の大学のことで、入学試験は難しかった。何しろ中学に進むのもたいへんな時代であったから、高等学校に進む人たちはまさに選ばれた人たちであった。
 高等学校に入学すると、あとは自動的に東京帝国大学を含めた大学に進学できた。高等学校で有名なのは、官立でナンバースクールといわれた第一高等学校から第八高等学校である。第一高等学校は現在の東京大学、第二高等学校は東北大学、第三高等学校は京都大学、第四高等学校は金沢大学、以下、熊本大学、岡山大学、鹿児島大学、名古屋大学と続く。その他に、東京高校、浦和高校、静岡高校など主だった都市に官立の高等学校があり、私立は学習院高校、成城高校、成蹊高校、武蔵高校の4つがあった。どの高等学校からでも東京帝国大学に入学できた。昔は、大学ではなく、どの高等学校に入るかが大きな評価につながった。レベルの低い高等学校から東京帝国大学に入学しても肩身の狭い思いをした。そのため高等学校の入学試験は熾烈を極めた。
 数ある高等学校の中で、最も難関なのは第一高等学校である。第一高等学校の定員は200名ぐらいで、受験生のあこがれの的であった。第一高等学校から東京帝国大学に進むのが当時の超エリートコースであった。

 井上靖の「北の海」は「しろばんば」「夏草冬濤」に続く自伝小説3部作の最後を飾る作品である。
洪作は無事、沼津中学は卒業できたが、高等学校には進むことができなかった。4年生のときと5年生のときに静岡高校を受験したが、失敗した。洪作は浪人した。
 洪作は台北にいる両親のもとへは行かず、相変わらず沼津の寺に下宿して来年を期した。洪作の中学時代の友人たちは東京・京都の私立の学校に進学しており、洪作は毎日一人で行動した。勉強はまったくはかどらなかった。
 そんなとき、落第した元同級生の遠山に町で出会った。遠山は卒業できずにいまだ沼津中学の5年生で、柔道部に属していた。柔道のうまい洪作は、遠山に誘われるままに、沼津中学の柔道の道場に毎日稽古に通った。
 ある日、洪作と遠山は四高の柔道部の蓮実と知り合い、洪作は四高の柔道部の夏季練習に参加することになった。洪作は<練習量がすべてを決定する柔道>という四高柔道部の理念に共鳴した。
 四高の練習はたいへんきついものであったが、鳶(とび)、杉戸という四高生と大天井(おおてんじょう)という、年を食った四高志望の浪人生と一緒に行動をした。大天井は柔道の達人で、ぜひとも四高の柔道部に入ろうとした。大天井は3回四高を受験していた。洪作は杉戸の下宿に泊めてもらい杉戸と四高の道場に通った。四高の柔道部の練習に参加して、来年は四高を受験し、柔道部に入ることに決めた。高校の3年間は勉強をしないで、柔道だけをしようと考えたのである。
 四高の柔道部に入るには四高に合格しなければならなかった。洪作は沼津にいることはあきらめて、回りの人たちの意見に従って、台北に行くことにした。両親のもとで、猛勉強するつもりであった。
 洪作は住み慣れた沼津をあとにして、台北に向かった。ここで物語は終わる。

 実際に、井上靖は四高に進み、そして京都帝国大学へと進んだ。四高では2年間柔道をやったらしい。洪作は自由奔放に生きた。井上も学生時代は自由にのびのびと生きたに違いない。

※:写真は、金沢にある旧四高校舎です。

 
作文道場井上 靖(いのうえ やすし)
 1907(明治40)年5月6日 -1991(平成3)年1月29日。 文化功労者、文化勲章受章。北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)に軍医・井上隼雄と八重の長男として生まれる。第四高等学校(現在の金沢大学)、九州帝国大学法文学部英文科へ入学、中退、京都帝国大学文学部哲学科へ入学、卒業。毎日新聞大阪本社へ入社。学芸部に配属される。なお部下に山崎豊子がました。
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